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佐渡旅情  

佐渡の人情と文化

 日本や朝鮮半島では、昆布とかワカメ、ヒジキ、モヅク、海苔、テングサのように、多くの海藻を食べる文化があった。これら海藻の多くには抗ウイルス作用とか抗ガン作用のある事が最近分かって来た。私は淡水藻のミカヅキモの研究を主にしてきたが、海藻にも興味がある。富山から近い能登半島に出かけ、赤や黄色、緑や褐色の綺麗な海藻を集め、趣味で標本を作って楽しんでいた。しかし、今迄の我流の採集法や標本作成法には限界があり、正式な方法を習いたいと思っていたところ、この(98年)夏、海藻の専門家で、東邦大学の吉崎誠先生が、佐渡島東北端の藻浦(もうら)海岸で海藻学校を開き、海藻の採集、同定、標本作りを教えて下さると言う。そこで、私は佐渡島に渡る事にした。富山から電車で直江津に行き、直江津から佐渡汽船で佐渡島南西の港、小木へ渡る。小木からバスで真野に行き、乗り替えて佐渡の中心の両津に行き、一泊。翌朝、両津からまたバスに乗って東北端の藻浦にたどり着く予定とした。
 ところが、佐渡島最初の小木で、真野行きのバス停にマイクロバスが停まっていて、運転手は死角に居た私に気付かない。重い荷物を両手に持って、バスを必死で追いかけたが行ってしまった。仕方なく、土産物屋を覗いたり、小木名物のタライ船を見たり、近くの日本アマチュア秀作美術館を訪れた。この美術館は小さいながらもちょっと面白い絵があり、館員も親切で、バスを逃して不機嫌だった気持ちが和んだ。
次のバスは真野での乗り継ぎが悪く、両津行きのバスは2時間近く待ち時間がある。そこで、真野バス停近くの食品店で付近の名所の回り方を尋ねたら、貸し自転車があると教えてくれ、客でもない私の為に貸し自転車屋に電話を掛けて聞いてくれた。私は、自転車で真野を観光して、ここに引き返し、またバスに乗ると言ったら、重たい荷物を預かってくれた。私は親切なその小さな店が気に入って、パンや牛乳などを買った。貸し自転車屋は歩いて2〜3分。猛暑の中の山道であったが、国分寺、妙宣寺などの名所旧跡を自転車で回った。途中、お寺の門で涼を取り、親切な食品店で買ったパンを食べ、牛乳を飲んで喉を潤した。
 佐渡は順徳天皇、文覚上人、日蓮上人、世阿弥など、76人もの貴族やインテリが流されたと言うだけあり、古い文化が今も生きている。言葉は京都の影響なのか丁寧で、アクセントも越後弁とは全く違う。京都に生まれ育った私には、佐渡は親しみが湧く。しかも「京都のぶぶづけ」の様な、屈折して複雑な心根ではなく、人情は素朴で温かみがある。お寺も良い。重要文化財の妙宣寺の五重塔は高さと幅の釣り合いが絶妙で、京都仁和寺五重塔にも増した華麗さである。
 真野の観光を終え、バスに乗り、夕方5時過ぎに両津に着いたが、宿泊案内所は閉店したばかりであった。ボソボソと歩いて近くの斎藤観光と言う土産物屋に入った。さすがに海産物が多い。動物ではタコ、イカ、アマエビやホタルイカの塩辛、スケソウダラやマダラの干物など。海藻ではワカメやモヅク、地元でギンバソウと呼ぶホンダワラ、ナガモと呼ぶホンダワラ属のアカモクなどで、富山と共通するものも多い。因みにアカモクは、日本海側の東北(特に秋田県、三浦昭雄先生談)、北陸で食用にされ、氷見ではナガラモとかナガレモと名づけて売り出しているが、佐渡でも古くからアカモクを食べる文化がある事が分かり、興味深かった。
 あれこれ土産物を見た後、斎藤観光の女主人に、明朝のバスで藻浦に海藻を採りに行くのだが、このあたりに宿はないだろうかと尋ねた。すると、私の風体を上から下まで見て、「やっぱり安いところがいいでしょう?」とやや語尾を下げて聞く。私が「え?、え−」と答えると、「ねえ−」と大きくうなずいて、近所の旅館に電話で問い合わせ、値引きの交渉までしてくれた。一泊七千円。旅館は昔風で、値切ったせいか便所のそばで、若干匂うが、静かでぐっすりとよく眠れた。
 翌朝8時頃、大野亀行きのバスに乗った。しばらくは、運転手一人、客一人。車中約1時間。運転手に佐渡の事をいろいろ尋ねた。運転手は50過ぎであろうか、人なつこい。私はバスの中程に座っていたが、運転席の隣に座れと言う。「藻浦に海藻を採りに行くって?ヘエー、あすこは海藻が多いの?成程、地名通りだね・・・。それで、どこに泊まるの?民宿の本間さん?本間は佐渡に多い名前だ。本間何て言うの?それじゃ、バス停から少しあるな」。我々は、途中で乗り込んだ3人の女性とも話す。彼女達は、日本三大巨岩の一つ、大野亀のロッジで夏の間アルバイトをしているそうだ。運転手は彼女達に「少し回り道してもいいかな?」。彼女達は「私らは急がんよ」。運転手は「誰か藻浦から乗って来るかな?多分、乗ってこんだろうね。内緒だよ(ニヤニヤ・・)」。結局、正規の路線の藻浦のバス停から外れて細道に入り、民宿の近くで降ろしてくれた。規則違反だとは思うが、こんな仏の様に慈愛に満ちた運転手は生まれて初めてである。二度とお目にかかれないだろう。生き仏様には、お賽銭代わりに僅かながらもお釣を差し上げ、3人の美女にもお礼を言ってバスを降り、名残を惜しんで手を振った。バスの後ろに席を移してくれた三美神の手が、いつまでも揺れていた。

海藻の押し葉標本作り

 民宿では、海藻学校が朝9時から始まる。まず吉崎先生の海藻の講義。終わると総勢13人で磯に海藻の採集に行く。全身海水に浸かり、約15種類の海藻を1種づつ別々のバケツに採る。民宿に持ち帰り、宿の前の道路で水道を使い、早速押し葉標本作りを始めた。
 標本を作る方法は、基本的には陸上植物の標本作りと同じである。但し、海藻は水の中にいる時は葉や茎が広がっているが、水から上げるとくちゃくちゃになるので、もう一度水に浸しながらケント紙の上に綺麗に広げて乾燥させる。
 海藻学校での標本の作成法は、1)よく生育して根、茎、葉の揃った海藻を選び、ゴミや雑藻を水洗しながら取り除く、2)台紙より少し大きめのプラスチック板の上に、採集日・採集地・採集者・海藻名を書いた長方形(ここでは、縦43cm、横29cm)の台紙(ケント紙)を置く、3)底の浅い長方形のバットに水を浸し、台紙の載ったプラスチック板を斜めに入れる、4)1種類の海藻を台紙の上に載せ、水中で台紙の手前から順に海藻を並べ、丁寧に広げる、5)台紙の乗ったプラスチック板を傾け、手前から除々に海藻をバットの水から引き上げ、台紙全体に海藻を並べていく、6)台紙を完全にバットから引き上げ水を切る、7)海藻の載った台紙を取り出し、上に木綿布、さらに新聞紙、段ボール紙を乗せる、8)同様に、海藻を並べた台紙、布、新聞紙、ダンボール紙を次々に重ね、一番上に重石を置く、9)数時間経ったら濡れた新聞紙を交換し、段ボールの隙間に扇風機で風を送り、数日乾燥させる、と言う要領であった。
 暗くなると、民宿の本間さんが親切に外に電灯を取りつけてくれた。夜更けまでこの作業を続け、翌日も、翌々日も朝8時か9時頃から海藻採取と磯観察を行い、お昼頃から夕飯まで標本の作製。夕食後は水を吸った新聞紙の取り替えと言うスケジュール。おまけに、初日は昼食抜きで、作業が3日続き、吉崎さんの教え方もスパルタ式で全員ヘトヘト。乾燥はさらに1週間程かかる。しかし、お陰様で、出来上がった海藻標本は今までとは見違える様であった。
 もし家庭で海藻押し葉を作られる場合には、上記の要領でケント紙の上に海藻を綺麗に広げて木綿のサラシを置き、さらに新聞紙を重ね、海藻の種類によっても違うが、1週間ばかり毎日新聞紙を取り替えて乾燥させれば良い。丁度、陸上植物の押し葉標本を作るのと同じ要領である。海藻押し葉は色がとても綺麗なので、興味のある方は試してみられる事をお勧めする。

佐渡の金山
 海藻学校の後、三女の蘭と両津で合流し、一緒に佐渡金山に行った。佐渡金山跡では、江戸時代の金を掘る様子が再現されて、当時の労苦が忍ばれ、大変社会勉強になった。古来、佐渡の相川などは砂金が出る事で有名であったが、採掘し始めたのは16世紀の佐渡領主本間氏と本間氏を滅ぼした越後の上杉氏であった。家康が幕府を開いて間もない1601年、相川に銀山が発見され、幕府は上杉氏から佐渡を取り上げて直轄領とし、採掘は本格的になった。1989(平成元)年に閉山されるまでに合計78トンの金が採れた。そのうちの3分の2近くが江戸時代、それも江戸時代初期に採掘された。佐渡の金銀は、開設間もない徳川幕府の財政を大いに助けた。一方では豊臣家にあった金・銀を社寺の造営や修復に使わせ、財政的にも豊臣家を次第に引き離し、大阪冬の陣(1614)と夏の陣(1615)で豊臣家を滅ぼした。また、戦前は戦争遂行の国策もあり、新しい採掘法で効率的に掘り、可成りの収量があった。採算は合わないが、佐渡では今でも金が出る。

佐渡の朱鷺(トキ)
 その後、両津と真野のほぼ中間の新穂村に、トキを見に行った。今では、中国からつがいのトキがやってきて繁殖に成功したが、当時は1羽だけだった。ところが運悪く、訪れたのは月曜日で休園。トキは見られなかった。然し、トキはカメラを通じてテレビで見るだけだそうだ。やむを得ないのかも知れないが、不自然な観察法である。絶滅寸前のトキを救おうとしたのだが、トキの生態をよく理解しないでトキを捉え、鳥かごに閉じ込めてしまった。その結果、日本のトキは、事実上絶滅してしまったのである。トキを保護するには、トキが住む環境を保護(保全)するのが一番であろう。無農薬農業にし、巣となる大木の茂る森を復活し、昔の自然に戻すことが重要だ。
 佐渡旅行はまだ続くが、電車、船、バス、自転車、そして徒歩で、佐渡の風土と人情に直接触れる事が出来た。車で回ったら、佐渡の人の気持ちに触れることは難しかっただろう。佐渡の自然と、佐渡の人の暖かい気持ちが、いつまでも心に残っている。日中友好で繁殖したトキが佐渡の大空、日本の大空、さらに東洋の大空を自由に飛べる日が来れば、と心から願っている。

1998.12

クョスコニョ    [1] 
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