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  和布刈神事(めかりしんじ)(2)
 

和布刈神事(めかりしんじ)(2)   

日御碕(ひのみさき)の民宿
 出雲大社に参詣しているうちに日も暮れてきた。島根の友人は、日御碕神社近くの民宿まで、曲がりくねった山道を車で送って呉れた。宿が近くなると真っ暗になり、海に落ちるのではないかと心配なほど道幅が狭く、波しぶきがかかる。民宿に着くと、友人は仕事が残っているのでと言って、暗い夜道を帰って行った。あとは旧友の松本君と二人だけになった。
 民宿の中出(なかいで)さんは、日御碕でただ1軒ワカメ養殖を続けている親子4代の漁師一家である。食後、ワカメの話を聞きたいと宿の人に頼んだら、嫁ぎ先から応援に来ていた35歳になる娘の和子さんが部屋に来て呉れた。彼女によると、「漁師も後継ぎがおらんようになって、高齢化で人手不足だね。ワカメの養殖や加工は一家総出だよ。海で採ったワカメを干して、出来た板ワカメは、最後は80過ぎた婆ちゃんがハサミで切って袋詰めしとるんやから、大企業にはかなわんわねー・・・。最近は、値段で韓国産に押されてしもうて・・・。食べてくれたら日御碕のワカメの旨い事が分かるんやけど、スーパーに並んどるのを見て、おばちゃんは高いワカメを買わんがね。ここらではワカメも採れるがカジメも採れる。けど、カジメは年寄りが食べるだけで、若いもんは食べんようになった。カジメは健康にも良いし、みのもんたがテレビで一言宣伝してくれたらすぐ売れるやろうに・・・・。あー、みのもんた、みのもんた・・・」。「とはずがたり」の様な色気話はないが、「問い語り」に、魚の事、日御碕神社の事、宮司の小野さんは小学校の同級生で、雲の上の殿様である事、云々云々、等々等々、夜更けまで話が続いた。
 余談ではあるが、和子さんの弟のお嫁さんは大阪から来た人で、和子さんとは対照的に静かである。夜も更けて布団を敷いて呉れた時など、ハッとする色気がある事に、松本君と私の意見は一致した。松本君とは、中学時代には思いも寄らぬ意気投合がある。

日御碕(ひのみさき)灯台
 翌朝、日本一高い日御碕灯台に松本君とブラブラ歩いて行った。二人で高さ44mのがっしりしたレンガ作りの灯台の上まで登り、周囲を見渡したら、ただ一面の海である。夜見ると、赤と白の灯火が交互に海上を照らして素晴らしいそうだ。
 灯台の近くは流紋岩と言う親指位の太さの石柱が垂直に並んだ岩で覆われており、木肌の少し赤いクロマツ、葉の大きなトベラ、ハマヒサカキ、ハマビワ、ネズミモチ、シャリンバイ、ヒメユズリハなど、環境汚染に比較的強いと言われる海浜植物が茂っていた。
 
日御碕(ひのみさき)神社
 一度宿に戻った後、ハッとした婦人のご主人に車で日御碕神社まで送って貰った。
 日御碕神社は、天平七年(735年)聖武天皇勅書(ちょくしょ)に、伊勢神宮は日出る所の宮で日の本の昼を守り、日御碕神社は日沈むの宮で日の本の夜を護る、とあり、中央の尊敬を集めた。それにしても、こんな辺鄙(へんぴ)な田舎に竜宮城の様に立派な、格式の高い神社があるのは驚きだ。松本君が後で送って呉れた小泉八雲全集のコピーに依ると、この神社でご馳走になった八雲も、神社の経済を大いに不思議に思った様で、主な収入は、政府の補助、豪商の寄付、社有地からの収益、と書いている。
 さて、民宿の和子さんの旧友で、昨年10月に第98代宮司に就任した小野高慶氏にお会いした。ふっくらとした顔立ちで、戦前は出雲大社の千家(せんげ)家と並んで、男爵の家柄だったそうだ。以下、小野宮司から伺った話。
「日御碕神社は、古来出雲大社の奥の院と言われて来ましたが、朝廷側に立って、出雲勢力を牽制していた様です。ここからはワカメ、海苔、艫島(ともしま)ブリを調(ちょう)として朝廷に納めていました。昔は、三重の塔や薬師堂などもありましたが、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、仏教関係の建物は総て取り壊されてしまいました。先祖は天葺根命(あめのふきねのみこと)、つまり素戔嗚尊(すさのおのみこと)五代の孫で、一時、日置(ひおき)姓でしたが、奈良時代から小野姓になりました。明治時代には4代の宮司が国から派遣されましたが、その他は小野家が代々宮司を勤めています。社家(しゃけ)も10件ほどありましたが、明治時代に分散して、今は1-2軒残るだけです」。
 また、「和布刈神事を行う前には、故事に従ってメカリを行います。漁師の安全、豊漁を祈願します、と言う祝詞(のりと)をあげます」との事であった。実際、山陰放送報道部の石谷祐一氏のご好意で、旧暦正月5日の和布刈神事のビデオを見ると、小野宮司が漢字で書かれた祝詞を読みあげた後、時折雪の舞う中を一人の神官が船で権現島に渡り、箱眼鏡と鈎(かぎ)の付いた棒を使ってワカメを刈り、三宝(さんぼう)の上に載せていた。その後、赤い褌(ふんどし)姿の7人の青年団員が、権現島から港まで泳ぎ渡ると、おばさん達が青年団員の労をねぎらい、大喜びで拍手をしていた。
 ところで、出雲風土記には新羅から国引きをした話、古事記には素戔嗚尊(すさのおのみこと)が新羅に行った話、さらに日御碕神社には韓国(からくに)神社と言う名の摂社もあるので、この神社と古代朝鮮との間の歴史的な関係などを繰り返しお尋ねすると、「朝鮮とは関係がありません」とか、「はっきりした事は、神代の事でよく分かりません」と、にこやかに繰り返しお答えになる。そのうち、こちらもだんだん神代に連れて行かれた様な、ぼんやりした気分になる。素戔嗚尊の神通力かも知れない。
 日御碕地方はいつも北西風の強い所で、我々が行った11月末はとても寒く、海岸に立つと吹き飛ばされそうであった。風力発電器を据え付ければ、きっと儲かるに違いない。その強風については、「先人の知恵と言うか、この神社は山の陰になっているので普段の北西風なら大丈夫です。しかし台風は南風なので、広島の厳島神社がやられる時は、必ずと言っていい程こちらもやられますね。この秋の台風では屋根が吹き飛びました」と、丁寧に答えて下さる。
 付近は小さな漁村で、お参りの人も少ない。宮司さんからお話を伺った後、私は帰りの路銀を案じながら、台風見舞いに一万円札を出して、五千円寄付します、と申し出た。私の寄付が意外だったのか、現金を包まずに釣りを頼む寄付が珍しかったのか、それとも釣り銭の用意がなかったせいか、素戔嗚尊の御子孫は少々慌てた様子であった。

和布刈神事の持つ意味
 前にも書いたが、ワカメは主として、日本、朝鮮半島南岸と東岸、中国、沿海州に産する極東の海藻である。日本海地方や韓国では今も海苔やワカメ、コンブ類をよく食べる。また、日韓併合前の1890年代に朝鮮を旅行した英国婦人イザベラ・バードは、朝鮮半島東岸で良質の海藻を大量に産し、ソウルに馬や船で運ぶ様子を記している(朝鮮紀行、講談社学術文庫)。更に時代をさかのぼった、高麗・李氏朝鮮時代以来の伝統料理には、朝鮮半島西岸ではワカメ料理がないのに、南岸や東岸には数種類ある(韓国料理文化史、李盛雨、平凡社)。食習慣、殊に食材は保守的で、外からの刺激がなければあまり変化しないだろうから、古代でも、東岸の新羅や南岸の任那(みまな)ではワカメをよく食べたであろう。
 和布刈神事はいずれも第13代成務(せいむ)天皇から第14代仲哀(ちゅうあい)天皇妃の神功(じんぐう)皇后までの間の、恐らく4世紀後半に、新羅や任那に近い北九州や山陰地方で起ったとされている。当時、新羅・任那・北九州・出雲さらに北陸地方までは、環日本海文化圏を形成していて、ワカメの食習慣はこれらの地方に共通する古い食文化なのではないだろうか。
 新羅建国の伝説に依れば、昔氏新羅の祖で、新羅第4代の脱解(とへ)王は日本海の龍城国で卵生したのち海に流されたが、新羅の海岸に漂着し、それを海女の母が拾い上げ、後に王となった(三国遺事)。新羅の王家の始まり、北九州や山陰地方の和布刈神事による年の始まりは、共に海と関係が深い。一方、天孫降臨を奉じる高句麗・百済系の大和朝廷は、高天原(たかまがはら)、即ち天に先祖の起源を求めており、海に起源を求める環日本海文化とは異質な気がする。
 日本海に面した日御碕地方は、明治時代の天才画家、青木繁が「海の幸」で描いた中出さんのような漁師が濱で生活し、「わだつみのいろこの宮」で画いたお姫様や小野宮司のようなお殿様が竜宮城のような神社に住んでいる、まるで古事記の世界にいる様な、何とも言い様のない不思議の感に打たれる場所である。日本や、恐らくは朝鮮半島にも共通する、この原風景がいつまでも永く続く事を私は祈っている。

2000.04

クョスコニョ    [1] 
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