総計: 1624145  今日: 85  昨日: 165       Home Search SiteMap E-Mail Admin Page
藻知藻愛(藻食文化を考える会)
日記
コラム
坂村真民先生の詩
もっと藻の話
マイクロアルジェ
 
 
 過去のもっと藻の話 
  自己紹介
    この稚拙なHPは誰の? と問い合わせがあったので・・・
  藻食文化を考える会
    藻食文化を考える会を立ち上げました
  講演会のお知らせ
    日本学術振興会181委員会
 「330000」を目指したいと思います!
「330000」
 
  日韓(朝)海藻昔話
 

日韓(朝)海藻昔話 

初めての韓国旅行        
 ここ数年、日本と韓国の海藻食文化に対する興味が増し、韓国に行きたいと思うようになった。そこで、20年以上の付き合いの富山大学朝鮮語学科の藤本幸夫先生と、同教室の和田とも美先生に、昨年4月から1年間、朝鮮語を教わった。ところが、勉強してみて愕然とした。論理的な思考力は昔と大して変わらないのに、記憶力ががた落ちなのである。
 朝鮮語を習い終えて半年以上経ち、殆ど忘れてしまった今年の8月、韓国のソウルと慶州(キョンジュ)に行く事になった。行く直前にもう一度朝鮮語を復習したが、こんにちは、これいくらですか?もっと安くして下さい、ありがとう、手洗いは何処ですか?地下鉄の駅はどこですか?さようなら、ぐらいしか話せず、不安極まりない。その上、教科書問題が再燃し、小泉氏が靖国神社に参拝しているうちに、韓国や中国との関係がまずくなった。韓国に行くか行くまいか、随分悩んだが、藤本さんに相談したら、「そんなん関係あらへん、なーんも心配ないで」との有り難い御託宣。3人の娘も行きたいと言う。父娘(おやこ)四人で韓国に出かけることになった。

歴史教科書
 ソウルに着いて、娘達と国立民族博物館を見学したら、青森の三内丸山遺跡で見た縄文時代前期の土器と似た櫛文土器(写真)が陳列されていた。更に驚いたのは、日本独自の文化だと思っていた勾玉(まがたま)が、古代新羅の都、慶州出土品の中に見られた。その中には、「もっと藻の話」の12話と17話で触れたが、出雲大社から出土して同社の宝物館に陳列されている薄緑色の4cm程の大きな勾玉と瓜二つの勾玉もあった。実際に慶州に行って古墳や博物館の陳列品を見ると、矢張り多くの土器や勾玉が陳列されていた。縄文土器や勾玉は日本独自の物ではなく、朝鮮あるいは中国にその起源があったり文化が共通である事を、韓国に来て初めて知った。

古代新羅の海藻
 さて、13世紀の朝鮮半島は高麗が統治していた。当時、国王から尊号を贈られたほど学識が深くて尊敬されていた「一然」と言う高僧がいた。日本で言えば、弘法大師の様な僧侶であろうか。彼は、戦乱などで失われた多くの古今東西の書に通じ、1280年頃に「三国遺事」と言う物語性豊かで、興味の尽きない歴史書をまとめた。その中に、次のような海藻の出てくる話がある。少し長くて恐縮だが、以下に引用する。
 古代新羅第八代、阿達羅尼師今(尼師今は古代朝鮮語で王の意味)の4年(西暦紀元157年)、東海(日本海)のほとりに、延烏郎(ヨノラン)と細烏女(セオニョ)と言う夫婦が住んでいた。ある日、延烏郎が海へ行って岩の上に履き物を脱いで藻を採っていると、急に一つの岩が彼を乗せて日本へ運んでいった。日本の人が延烏郎を見て、これはただならぬ人物だとして王に奉った。日本帝紀を見ると、この事件の前後に新羅人で日本の王になった者はいないから、恐らく彼は辺鄙な地方の小王になったのであって、本当の王ではないらしい。妻の細烏女は、夫が帰って来ないのを変に思い、海辺へ行って探してみると、夫が脱いでおいた履物が岩の上にあった。それで彼女もその岩の上に上がると、岩がまた前と同じように動いて運んで行くのであった。日本の人達が彼女を見て驚き、王に申し上げたので、ようやく夫婦が再会し、彼女は貴妃に定められた。このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまった。日官(気象を司る役人)は、太陽と月の精が新羅にあったのに、日本に行ってしまったため、このような異変が起こったのです、と言上した。そこで、王は使者を日本にやって二人を探したところ、延烏郎が、私がこの国に来たのは天がそうさせたからである。だから今さら戻れようか。だが、私の妃が織った上等の絹がある。これを持って行って天に祭れば良かろう、と言ってその絹を呉れた。使者が帰って申し上げ、その言葉どおり祭ると、いかにも太陽と月の光が元に戻った。その絹を御庫にしまっておいて国宝とし、その倉庫を貴妃庫と呼び、祭天した場所を迎日県、または都祈野(ときの)と名付けた(三国遺事、金思華訳、朝日新聞社、一部改訳)。
 ところで、延烏郎はどんな海藻を採っていたのだろうか。この記述だけでは断定出来ないが、日本に着いたのだから季節は西風の季節風が吹く冬から春にかけてではないだろうか。また、履き物を脱いでいたのだから、潮間帯(満潮線と干潮線の間)に生えるウップルイノリ(イワノリ)か、それより少し深い漸深帯に生えるワカメなどの海藻ではないだろうか。実際、ウップルイノリもワカメも朝鮮半島東部の旧新羅領の日本海沿岸(東海のほとり)で、今日でもよく採れる。
 この話に書かれた二世紀の新羅とか、「和布刈(めか)り神事」で述べた四世紀末の神功皇后時代の日本では、両国の往来が頻繁で、新羅では海藻を食べる習慣があり、日本でもワカメがよく食べられており、言葉も通じたのかも知れない。延烏郎が王になった日本の一地方とは、対馬海流の流れ、出雲風土記の國引き神話、慶州と出雲の勾玉の酷似性、和布刈(めか)り神事などから考えて、出雲地方か石見地方かもしれない。

山城の國風土記:宇治橋姫とワカメ
 韓国では、妊婦や産後の授乳期にワカメスープを食べる。つわりにワカメが良いという、よく似た話が山城の國風土記にもある。成立年代は比較的新しく、平安末期らしい。拙訳を以下に記したい。
 宇治の橋姫がつわりになって、七尋(一尋は両手を広げた長さで、約1.8m)のワカメが欲しいと言った。夫が海辺に探しに行って笛を吹いていたら、龍神が笛の音に感じ入り、婿にしてしまった。妻が夫を尋ねて海辺に来て、老女の家で尋ねたところ、「その人は龍神の婿になっているが、龍神の住んでいる竜宮のかまどの火が嫌いで、此の濱で食事をするので、その時に見なさい」と云う。そこで、隠れて見ていたところ、夫は竜王の玉の輿に担がれてやって来て、お供えの食事を食べた。妻はしばらく夫と話をした後、泣く泣く別れた(秋本義郎校注、風土記、日本古典文学大系2、岩波書店)。
 夫を龍神に取られた身重の妻の哀れさは察してあまりあるが、海に超自然的な力を持たせたり、妻が夫を海辺に探しに行ったり、海藻(ワカメ)が出てくるなど、新羅の話と宇治の話はどこか似ている。また、新羅の延烏郎の話は天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸に隠れる古事記の神話と共通性がある。

日本と韓国(朝鮮)の関係
 今回、我々父娘は至る所で韓国の人々にとても親切にして貰った。旅の前の不安は全くの杞憂であった。以前、京都大学に留学していた金尚吉(キム・サンギル)さんに、私はミカヅキモの事でお世話したことがあるが、今回、彼にはソウルで親身のお世話になった。また、慶州の宿で会った小児科医の夫妻は通訳をしてくれたり、長女が熱を出した時に、わざわざ薬を買いに行ってくれた。慶州の古墳公園では、歴史に詳しい女性が親切に案内してくれた。
 古事記や日本書紀を見ても、日本の皇室や貴族は古代朝鮮の百済や新羅の王族や貴族と親しかった。一般人どうしも同様であろう。遺伝学的・人類学的研究からも、日本人の40%は朝鮮系と言われ、顔や体型を見ても、考え方や人情に接しても似ている。奈良や京都、大阪の御陵を宮内庁が公開しないのは、皇室の先祖と古代朝鮮王族・貴族との縁戚関係などが判明するのを嫌がっているのであろうか。
 また、戦前の日本が朝鮮を侵略したと言われるが、当時の日本は、今日の貨幣価値に換算して毎年1兆円以上の国家予算を持ち出して、道路、橋、堤防、鉄道、港湾などを整備し、産業を興し、小学校から大学まで作り、李氏朝鮮時代の恐怖政治、腐敗社会を文明社会に変えた(黄文雄、韓国人の「反日」台湾人の「親日」、Kappa Books)。互いに相手国から受けた恩恵と思い やりを忘れなければ、日本人と韓国人(朝鮮人)はもっと仲良くなれて、互いにもっと力が発揮出来、地球全体に、海藻文化を始めとした優れた文化を発信出来るのではないだろうか。

2001.12

クョスコニョ    [1] 
 前のテキスト: 世代の交代
 次のテキスト: 環境悪化と毒藻の発生
 
EasyMagic Copyright (C) 2006 藻知藻愛(藻食文化を考える会). All rights reserved.