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「330000」
 
  出雲海藻風土記(3)美保神社
 

出雲海藻風土記(3)美保神社
 
美保(みほ)神社へ
 
前回の佐太(さだ)神社から車で更に東へ、島根半島東端の美保(みほ)神社に向かった。距離も時間もかなりあり、3時頃やっと着いた。美保関(みほのせき)港から山手へ登ると、「三保神社」の大きな石碑がある。鳥居をくぐって石段を上り、右手に宝物館を見て参道を進む。突き当たりの石段を上ると広場で、左手前が社務所、奥に拝殿がある。更に奥の二棟が本殿で、背後に森が迫る。向かって右の上席の本殿には高天原から降臨の三穂津姫命(みほつひめのみこと)、左の本殿には大国主神の息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀る。お参りの後、社務所に戻り、禰宜(ねぎ)の横山宏充(ひろみつ)氏にお会いしたい、と申し出たら、受け付けの神官の方に、濱田さんですね、と言われ、宝物館三階の応接室に案内された。日御碕(ひのみさき)神社の高木玄明氏夫人・美也子さんが、従兄の横山氏に電話で私を紹介して下さっていたのである。美保神社の横山家も代々宮司の名家で、境外末社の糺(ただす)社に先祖が祀られている。横山宏充氏はさらに、郷土史に造詣の深い横山直材(なおき)宮司を紹介して下さった。横山宮司は02年8月当時80才ながら、矍鑠(かくしゃく)として頭脳明晰。声太く、豪傑風の方であった。國學院大学時代の友人だったとかで、古代史の上田正昭先生の名前や、神官どおしで知己の間柄らしく、綿貫民輔衆議院議長(当時)の名前が時折出て来る。

美保神社の和布刈神事
 横山宮司に依ると、祭神の事代主神は、新羅遠征時の神功(じんぐう)皇后や、秀吉朝鮮侵攻時の吉川広家の軍を加護した。戦国時代迄の重なる兵火や民家の類焼で古い資料は残ってないが、江戸時代の美保神社の書物には、以前は和布刈(めかり)神事を行っていた、と書いてあったそうだ。即ち、美保神社近くの横屋島(横屋は社家の意味)のワカメが年の初めに生えて来るのを刈って神様にお供えし、神事の後の直会(なおらい)で、お下がりのワカメを食べた。現在でも、美保神社の平素の神饌にはノリ・ワカメ・コンブなどの海藻を使うそうだ。

神迎(かみむかえ)神事
 五月五日の神迎神事でもワカメを食べる。この神事に携わる神官は祭の前日から神社に参篭(さんろう)し、酒を慎む。食事を作る火は、元々燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)を使っておこしたが、今は火打ち石とモグサ・イオウを使い、つけ木(イオウの付いた木)で発火させる。斎食は、御飯と塩・ゴマ・野菜・海藻(ワカメ、ノリ)などで、当日調理した斎食(潔斎食)を食べる。味噌や醤油は、神事の日以前に火を使い発酵させた食材なので、斎食には使えない。
                
諸手船(もろたぶね)神事 
 新嘗(にいなめ、しんじょう)祭は勤労感謝の日の起源で、普通11月23日だが、三保神社では12月3日午前に行われ、八百穂祭(いやほのまつり)とも呼ばれる。当日午後行われる諸手船神事は、古事記の大国主神の「国譲り」神話を表した神事である。天照大神の使者から国譲りを迫られた大国主神が、美保で釣りをしていた息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)に長崎のペーロン競技に似た早船の諸手船(古代建造様式の丸木の刳り船)の使いを出し、事代主神が国譲りを承諾する所までを再現する。三穂津姫命を祀った一の舟と事代主神を祀った二の舟の二艘の諸手船に氏子が9人づつ乗り、神社のある宮灘(みやなだ)から大国主神を祀る対岸の客人社(まろうどしゃ)迄の4〜500メートルを一往復半、全速力で漕ぐ。この神事の前にも、ワカメなど海藻の入った斎食を食べる。

青柴垣(あおふしがき)神事
 青柴垣(あおふしがき)神事は旧暦3月3日に行われたが、今では4月7日を中心に前後12日間行われ、神事の後でワカメを食べる。この神事では、事代主神が国譲りを承諾し、乗っていた船を自ら傾け、海中の青葉の柴の垣に隠れられた故事を再現する。青柴(アオフシ)は植物の新たな芽吹きの節(ふし)とも解釈され、神の復活を示顕している。長く氏子の漁船を使って来たが、今は神社所有の、諸手船とは別の船を使う。

古代文化と神事
 横山宮司の話は続く。「ペーロンは、ニュージーランド、フィリピン、中国、沖縄、長崎、出雲などに見られるが、途中のインドネシアにはない。イスラム教が入ったからだろう。と言う事は、ペーロンには宗教的意味があったのだ。美保神社では年2回づつ、似た行事がある。例えば、6月末と12月末の大祓、青柴垣神事(3月)と諸手船神事(12月)、米正月と麦正月(6月15日)などである。これは、二毛作を行う南方文化の影響で、昔は1年を2年と数えたようだ」。そういえば、古事記には寿命が100年を越える天皇が多く出てくるのも、1年を2年と数えたためかも知れない。
 また、「昔の人は朝起きて、食前に歯を磨いたか、食後磨いたか、そんな記録はない。しかし、食べ物には神様が宿っていると考えたから、歯を磨いて自分の口を清めてから食事をした。今では、食後に歯を磨く方が衛生的とされるが、昔の習慣にも意味があった。歯磨きのように当たり前の事はいちいち書かないし、書物にも載ってない。ところが、学者はよく、昔の人は食前に歯を磨いたか食後に歯を磨いたか、記録にないから分からない、と言う。そこまでは良いが、さらに、歯を磨いたという記録がないから、昔の人は歯を磨かなかった、と言う人もいる。しかし、そんなことは言えない」。
 また、「縄文時代以前は狩猟・漁労が主で、移動の為に航海したから、今では想像出来ないほど航海術も進んでいたに違いない。沿海州やアメリカ大陸で縄文土器と似た土器が出てくるのもその証拠だろう。先史時代の生活は神事の中に再現されてるが、記録がないので学者は縄文以前の優れた航海術を信じない。弥生時代に稲作が広まって定住生活をし、船を使わなくなって航海術も衰えてしまったのではないか」。実際、古代高句麗や渤海は、敦賀や能登半島の福良の津(現在の福浦港(ふくうらみなと)、あるいは出羽の国にやって来たのだから、朝鮮半島の沿岸沿いではなく、日本海を突き切って航海したのだろう。彼等の造船術と航海術の高さはかなりのものだったのだ。時代はさらに遡るが、縄文時代の航海術が高度なレベルであったとしてもおかしくない、と私も思う。
 言葉については、「昔は中国とは通訳なしで、ある程度話が通じたんじゃないか」と仰る。中国語は日本語と文法が違うのでよく分からないが、文法が同じ朝鮮語となら通じたかも知れない。新羅と出雲は300キロ。釜山と福岡なら200キロ。諸手船の早船で海流に乗れば2〜3日で着く。古来朝鮮半島から日本列島に大勢が渡来した。国境もない時代、言葉が通じても不思議はない。逆に陸上だと山あり谷ありで、一日にせいぜい20キロしか進めない。内陸間で50キロ離れたら、会話も難しかったかも知れない。
 さらに、「東洋は包容力があるが、アングロサクソン(西洋)は独善的で思い込んだら命がけ」と熱が入る。私も日頃アメリカやイスラエルの独善的な爆弾攻撃には憤慨していたので、大きく頷いた。 
 美保関は、日御碕の宇竜港同様、奈良時代以前から風待ちの港として栄えた。隠岐との関係も密接で、後醍醐天皇は神社の前の美保関港から隠岐に流された。また、三保神社では、祭の時に神官が海に入り、潮草(海藻)を採って竹串に差し、自分の身を祓うそうだ(同神社神官・森氏)。隠岐の玉若酢神社で、モバ(海藻)を使ってお祓いをするのと似ている。
 神事において、海藻の他に船が用いられるなど、古代出雲は、朝鮮だけでなく南方海洋民族とも文化的つながりのあった事を感じさせる。私は、日本文化の起源に思いを馳せながら、神社の前の港に並んでいる土産物屋でイカの干物を買った。

2002.08

クョスコニョ    [1] 
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