総計: 1618112  今日: 4  昨日: 437       Home Search SiteMap E-Mail Admin Page
藻知藻愛(藻食文化を考える会)
日記
コラム
坂村真民先生の詩
もっと藻の話
マイクロアルジェ
 
 
 過去のもっと藻の話 
  自己紹介
    この稚拙なHPは誰の? と問い合わせがあったので・・・
  藻食文化を考える会
    藻食文化を考える会を立ち上げました
  講演会のお知らせ
    日本学術振興会181委員会
 「330000」を目指したいと思います!
「330000」
  08.01.31 美しく豊かな水俣の海
 

水俣(みなまた)訪問

 今春(2003年)、熊本市内の熊本県立大学で行われた水環境学会の終わった翌日、イクスカーション(学会主催旅行)で水俣市に行った。熊本市からバスで高速道路と一般道路を通って約2時間南下すると、鹿児島県境に水俣市がある。水俣は、美しい不知火(しらぬい)海に面し、晴れた日には対岸に天草を臨む。昔から魚や海藻が主食でご飯は副食と言われるほど海の幸の豊かな所であった。

 ところが、水俣に近い鹿児島県大口村に1906年(明治39年)曾木電気が設立されて大量の水力電気が得られた事から、1908年、チッソの前身、日本カーバイド商会水俣工場が建設され、両社は合併して日本窒素肥料株式会社が出来た。工場では1937年以後、窒素肥料だけでなく、アセチレンからアセトアルデヒド(酢酸ビニルなどの原材料)を硫酸水銀を触媒として合成し、副産物のメチル水銀が水俣湾に流された。水俣病は脳神経がメチル水銀に冒され、頭痛・吐き気・めまい・視野狭窄・手足のしびれ・よだれ・痙攣・感覚麻痺・歩行障害・言語障害等々を伴い、最後には狂い死にする恐しい病気である。既に戦前発生したが、アセトアルデヒドの増産を始めた1955年頃から猫が狂い死にし、195651日、チッソの細川一医師により、患者が初めて水俣保健所に届け出された。

 

水銀の多い海域を埋め立てて出来た市立水俣病資料館から水俣湾を望む。

 

水俣病資料館などの見学  

 水俣で最初に訪れた市立水俣病資料館では、水俣病についての説明や資料の展示があった。患者で語り部の浜元二徳さんが、当時の社会や家族の状況、病気について、話を聞かせて下さった。水俣では、患者さんの声を聞きたいと思っていたので良かったが、時間が短く残念だった。隣の熊本県環境センターでは、ゴミの分別回収などに積極的に取り組み、資源循環型社会を目指している、現在の水俣市が紹介されていた。その姿勢にはイタイイタイ病の経験を持つ富山県も、また日本全体も範として学ぶところが多かった。

 

患者への誹謗中傷と差別

 水俣病資料館から南東に数キロ離れた水俣病歴史考証館には昔の漁具や食事の展示があった。また、政治家の心無い発言や、「假病認定補償乞食居士」とか、「今日の新聞を見て貴方は此の寒いのに座り込んで居られるが、本当の患者さんなら座る元気が有りますか。お金を貰いたい一念のニセの患者だからその元気が有るのでせう。最早水俣病は済んで居りませう。今残っている者はニセ者です」とか、「お前等乞食野郎の朝鮮人部落民等は未だありもしない病気がありと言ふ假病野郎。病気ならとっくにくたばって居る。水俣病患者なら金を貰って早くくたばれ」等と、患者宛ての葉書のコピーも展示されていた。多くの患者は、身体の痛みより、差別や誹謗中傷に依る精神的な痛みの方が辛かったそうだ。

 

公害拡大と御用学者

 チッソ工場から排出されたメチル水銀は熊本県1775人、鹿児島県489人の認定患者を出したが(20003月末現在)、実際の被害者・患者は十万人を超えたと言われる。正式な発見から3年後の1959年には、チッソ水俣工場排水のメチル水銀が病気の原因だと特定されたのに、その後も、政府・企業・県が一体となって原因を隠した。猛毒廃水の排水中止を訴えてデモをした多数の患者を機動隊が排除・逮捕し、裁判にかけて処罰し、製造法が変わる1968年まで廃棄し続けた。その後は、厚生省・環境庁・熊本県が認定審査会を設けて御用学者を集め、病気の認定を独占し、特別に厳しい認定基準を設けて患者を見捨てた。その結果、今でも病気と貧困に苦しむ大勢の非認定患者がいる。この間の経過は、富山県のイタイイイタイ病の場合と、あまりに良く似ていて驚く程である。

 公害問題に共通する様だが、大学教授など、一見良識を持って公正に判断してくれそうな人の中に、良心を欠いて公害の推進と隠匿に手を貸し、患者を苦しめたり見殺しにした御用学者が多数いる。イタイイタイ病の場合も最初は隣県の金沢大学医学部が絡んだ。後に、厚生省と富山県はイタイイタイ病認定審査会を作ったが、イタイイタイ病発見者で患者を長年診て来た民間の萩野昇医師を結局は排除し、富山県幹部や富山医科薬科大学の保健医学教室の教授などに認定を独占させ、病と貧困に苦しむ患者を切り捨てた。彼等は、学問的レベルは低いにも関わらず、日常的に嘘が多く、権力を嵩(かさ)にきて威圧的である。

 

学会の原点は何か?

 水環境学会の主催旅行なので、2000人程の学会参加者の少なくとも1割は水環境問題の原点である水俣を訪れ、熱い雰囲気の中で夕方まで見学出来るものと期待していた。ところが、旅行は業者任せで、参加者は20数人しかなく、おまけにバスの集合時間に遅れる人や帰りの飛行機に早く乗りたい人もかなり居て、現地滞在時間は正味3時間程であった。その為、資料は十分見られず、職員は親切に説明して下さるのだが質問する時間が少なく、後へ後へと疑問が残ってしまった。そこで、説明をして下さっていた環境省国立水俣病総合研究センターの永井克博氏にもっと詳しく知りたい旨お願いしたら、とても親切な方で、一行が見学会を終えた後、私一人の為にもう一度最初の水俣病資料館に戻って詳しい説明をして下さった。その後も御自身の車を運転してチッソ工場や二つの工場排水口、それに身体の不調を抱えながら漁業に従事され、水俣病の語り部もして居られる杉本栄子さんのお宅にも連れて行って下さった。お陰様で次の様なお話を伺う事が出来た。

 

戻って来た海の幸

 水俣は山が海の侵食を受けて海岸線が複雑に入り組んだ、美しいリアス式海岸である。古来、山の木と海の水を大切にする土地柄で、山には夏みかん、茶、野菜などを栽培し、海ではホンダワラ類(日本海地方の様にギバサ・ジンバソウと言わず、ホンダワラと言う)、ヒジキ、ワカメ、オサ(アオサの訛りでヒトエグサの事)などが湧く様に生える。魚介類では、カサゴ、メバル、タチウオ、コチ、ハモ、クロダイ、ヒラメ、ウナギ、アジ、イリコ(カタクチイワシ)、ウニ、ナマコ、イツツハゼ(ヒトデ、塩水で湯がいて皮を取り、中身を食べる)、イカ、タコ、アワビ(潜水漁でなく、箱眼鏡で見て突く)、マガリ・ホゼ・ビナ等の巻き貝が、再び豊かに捕れる様になった。しかし、海藻のテングサ、ホンダワラに着くモドコ(モヅク)、魚ではスズキやマナガタ(マナガツオ)が、昔と比べてかなり減ったそうだ。それで、オコゼ、クルマエビ、ヨシエビ、メジナ、アワビなどを養殖し、放流しているそうだ(以上、杉本栄子さんと漁協の岩崎巧さんの話)。

 網元の一人娘として育った杉本さんに依ると、今の漁業は海を見ずにお金を注ぎ過ぎ。海はお父さんとお母さん。魚は恋人。チリメンが海の下から湧いて来る。海に出て海と語り、イルカが来るとイルカにどこから来たの、誰を探しているの、と聞く。海藻は必要な部分だけ頂き、有難うと言って根を残す。畑にはイワシや食べられない海藻を肥料として与え、夏みかんや野菜とも話す。まるでアイヌのユーカラを聞く様だ。病気が治って来たのは海のお陰。海藻のお陰。捕った魚を食べて、美味しい事を確かめてから売る。船魂(ふなだま)さん(海の神様)が漁を教えてくれる。神様は生きている私達を支えてくれる。1115日の恵比須祭りには、恵比寿さんのお祭りをして、海の幸を神様にお供えする。死後は仏様(浄土真宗)が守って下さる。日本教の極意であろうか。

 

公害に学ぶこと

 水俣病の原因は、チッソと政府の国策にあった。しかし、塩化ビニール製の水道管、プラスチックの殆どは水俣工場産のアセトアルデヒドがその原料であったし、用途の広い亜鉛、鉛などを一番生産したのは、イタイイタイ病の三井金属神岡鉱業所であった。背景には、ひたすら経済的豊かさを求めた国民一人一人の姿がある。自分が訴えてきたチッソは、もう一人の自分ではなかったか、と言って認定を取り下げた患者、緒方正人さんの言葉(証言水俣病、栗原彬編、岩波新書)が、私の胸にも重くのしかかる。

2003年8月

クョスコニョ    [1] 
 前のテキスト: 08.02.29 長門一宮(ながといちのみや)住吉神社の和布刈(めかり)神事(1)
 次のテキスト: 08.01.11 豊前國(ぶぜんのくに)小倉藩 門司 和布刈(めかり)神社の和布刈神事
EasyMagic Copyright (C) 2006 藻知藻愛(藻食文化を考える会). All rights reserved.