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「330000」
  08.02.29 長門一宮(ながといちのみや)住吉神社の和布刈(めかり)神事(1)
 

長門一の宮 住吉神社  

 20033月のある日、門司の和布刈神社で高瀬家信宮司に和布刈神事の話を伺い、翌朝、対岸下関市の住吉神社を訪ねた。神社は源平合戦で有名な壇の浦から真北に直線距離で4キロ弱。バスで山裾を大きく右に回り約20分、一の宮のバス停で降り、東へつま先上がりに数分歩くと左手に庭の池が美しい住吉神社に着く。JR新下関駅へは北西へ約1キロ。

 古事記や神社伝承の話に依れば、長門國一宮・住吉神社は大阪市住吉区の住吉大社より1年早い西暦200年、新羅に戦勝した神功皇后が、穴門山田邑(現在の下関市一の宮住吉町)に創建された。その際、明治以前の大宮司、山田家の先祖である神主踐立(かんぬしほむたち)に命じて旧正月元日未明、壇之浦の和布(メ、わかめ)を刈り採らせ、神前にお供えされたという。これが住吉神社の和布刈神事の始まりで、下関市の住吉神社と門司の和布刈神社で、旧暦一月一日午前三時半頃に行われ、1800年(歴史的には1600年)以上続く。太陽・月・地球がほぼ一直線に並ぶ旧暦朔日(ついたち)の中で、和布刈の時は年間最大の干潮なのだ。

 神社では大勢の神官が揃って広い境内の掃除をして居り、清々しい。境内中央には小さいが洒落た太鼓橋があり、奥の階段を三十数段登ると明るく開けて、古い建物が並ぶ。正面手前に1539年毛利元就寄進の重要文化財拝殿。奥に1370年大内弘世再建の国宝本殿が並ぶ(写真参照)。

(写真:下関市の住吉神社。手前は重要文化財拝殿、奥の5棟は国宝本殿)

 

本殿は殿(やぐら)が長屋の様に横に五棟連なる。向かって左から、西第一殿に表筒男命(うわつつおのみこと)、中筒男命、底筒男命(住吉三神)、西第二殿に応神天皇、中第三殿に武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)、東第四殿に神功(じんぐう)皇后、東第五殿に建御名方(たけみなかた)命を祀る。 

 境内の裏手には80種以上の貴重な原生林が鬱蒼と茂る。特に楠は武内宿禰命がお手植えと伝わる。古株から新根が生え、根廻は60メートルにも及ぶそうで、植物学的にも貴重な森だ。

 

小山久志禰宜(ねぎ)の話

 掃除を終えた禰宜の小山久志氏に社務所で会えた。氏は私より数才若い。自宅住所や専門、趣味の他、京都生まれ等と書いた私の名刺をしげしげと見て、「私の家は岡山県新見の神社なんやが、高校時代、京大病院近くの熊野神社に養ってもろとった。京大農学部は易しくて受かったが、宮司さんには京大に行きたいなんてとても言えんで、勿体ないと思い乍ら国学院に行って神職になった。もし京大に行っとったら別の人生になったじゃろうね」としみじみ語る。成程、京大農学部は私でも受かる程易しいが、御覧の如く後は保証しかねる。そこで、「神職も大事な仕事だから良かったでしょう」と応じた。

 小山氏に依ると、住吉神社は旧官幣中社と格が高く、明治以後山田大宮司家に代わり中央から宮司が派遣され数年ごとに代わった。従って、門司の和布刈神社で高瀬家が代々宮司を勤めるのとは異なり、和布刈に関する古文書類は少ない。明治政府は文明開化で神仏混淆を廃し、社寺を整理したが、貴重な神事や古文書、言い伝え等、伝統文化もかなり亡んだ。小山氏とは京都の事など話している内に仲良くなり、写真も撮らせて貰った。帰りには新下関駅まで軽トラックで送って下さり助かった。

 その後年末に小山氏から突然の電話。私が撮った小山氏の写真がいたくお気に召し、もっと藻の話の和布刈神社の記事にも感心され、「うちの和布刈神事は秘事で誰も見れんけど、研究の為やったら、和布刈供奉員(めかりぐぶいん)になってもろて、和布刈の手伝いをしながら見ると言う手がある。寒い時で大変やが、もし来れるんやったら宮司に言って許可を取って上げるけん考えてみんさったら」と言う話。これは、千載どころか千八百載一遇の好機。参加させて頂く事にし、急遽、乾布摩擦や階段の昇り降りで体を鍛えた。

 

和布刈神事(めかりしんじ)

 住吉神社の和布刈神事の前日121日。朝6時23分発の特急サンダーバードで小杉駅を出発。大阪で新幹線に乗り換え、新下関駅に1217分に着いたら吹雪だった。早速住吉神社を訪ね、小山さんと再会。すぐ宮司の大司(おおつかさ)満邦氏に紹介された。暖かく穏やかな感じで、お公家さんの様な方。御先祖は武内宿禰命とか。壇の浦近くの安徳天皇をお祀りした赤間神宮の権宮司から二年前に住吉神社の宮司になられた。後で「和布刈特別供奉員を命ずる」という直筆の辞令を頂いた。

 神事迄には間があり、和布刈神社を再訪した。小山さんが壇の浦迄、例の軽トラで送って下さり、またまた助かった。和布刈神社では禰宜の高瀬泰信氏にお会いした。父の宮司さんは高齢なので、一人で神事の準備に忙しい。資料を少し見せて頂き、失礼した。

 住吉神社では午後6時半、裃(かみしも)姿の氏子約十人が、謡曲、神歌(かみうた)と和布刈を、吹雪が舞い込む拝殿で奉納した。拝殿は最初床がなかったが、構造補強を兼ねて後で張られたそうで、多くの行事がここで行われる。     一度、宿で休息を取ってから、神事の始まる22日午前1時に神社に行くと、小山氏は私を他の供奉員に紹介された。その後、拝殿で神官数名が和布刈の無事を祈願し神事が始まった。宮司と禰宜が祝詞(のりと)を詠み上げ、次いで禰宜が燧(ひきり)で火を起こして提灯に移し、その火を更に拝殿の外で松明(たいまつ)に移す。二時過ぎ、衣冠束帯姿の神官3名と法被に長靴姿の供奉員十数名が和布刈道を歩いて近くの国道に出た。

 昔、昭和45年頃迄は供奉員も神官の装束で、夜中の1時頃に神社を出発し、松明を一本づつ燃やし継ぎながら、約2時間掛けて壇ノ浦まで和布刈道を歩いた。6時間近い神事の照明に、各自1本の松明と薪を天秤棒に担いで運んだそうだ。また、松明の火が飛び散ると枯れ草が燃えるので、火消し役も一人いた。しかし、交通量が増して危険となり、車を使う様になった。松明・提灯等は軽トラに積んで壇ノ浦に向かった。

 夜は深々と冷え、国道はひどい吹雪で心配したが、3時前に壇ノ浦に着くと不思議にも吹雪はぴたりとやんだ。住吉大神の御加護であろうか(?)。松明を先頭に、関門橋近くから海岸に降り、二百メートルほど東にある海濱火立岩(うみはまほたていわ)と言う岩の前で、暖と明りを取り、餅を焼く為に火を焚いた。岩は、長さ3メートル、幅2メートル、高さ1.5メートル程で、フジツボでびっしり覆われた下部まで全部海から顔を出している。この辺りは干満の差が3メートル程あるが、年一番の大干潮なので普段見られないタコやアメフラシなども顔を出し、和布刈もしやすい。岩に土器(かわらけ)を数枚置き、その上に米、餅、お酒を備え、海に向かって宮司が祝詞を上げ、これから行う和布刈の安全、航海の安全、豊漁などを祈願した様だ。神事が済むと、禰宜はお供え物と土器(かわらけ)を暗い海に投げ入れた。

 午前三時過ぎ、門司の和布刈神社とほぼ同時刻に和布刈が始まる。少し高い所からだと、互いに相手の火が見える。和布刈神社は公開していて例年マスコミが押し掛けるが、今年(2004年)は道路が凍結して殆ど来れず、静かであった。一般の人は神事の火を見てはならず、見ると目がつぶれると言われたので、当夜は街道筋の家は堅く雨戸を立てて見なかった。大司宮司さん御自身も赤間神宮に居られた時は、目の前で神事があったのに見た事がなかったそうだ。ところが、供奉員の誰かが海峡の深いところ迄ワカメを探しに行ったところ、海上保安庁の人がどこかで監視していて、海峡中に響く大型スピーカーで、「危険なので浅瀬に戻りなさい」と注意したのには驚いた。目は大丈夫だろうか??

 我々和布刈供奉員十数人は、松明や懐中電灯の明かりで30分程ワカメとアラメ(実際にはクロメ?)も少し刈った。今年(2004年)の和布刈は、アラメは豊作だったがワカメは不作で、あちこち探したが少ない。大型船舶の航行安全の為、数年前に海峡を浚渫(しゅんせつ)してからワカメが不作になったらしい。ワカメが足の踏み場もない程生えていた昔は、滑り難いワラジ履きでもかなり気を使ったと言う。松明は1本しか焚かないので、私は懐中電灯を持った人と一緒にワカメを探したが、彼が20株程見つける間に私は1株か2株しか見つけられなかった。暗い海ではアラメは固い感じだが、ワカメは柔らかくユラユラしているので簡単に見分けられる、と彼は言う。(つづく)

2004年2月

クョスコニョ    [1] 
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