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「330000」
  08.04.01 長門一宮(ながといちのみや)住吉神社の和布刈(めかり)神事(2)
 

住吉大神(すみよしのおおみかみ)

 現在の壇ノ浦は小石が多いが、昔は岩がゴツゴツした磯で、その岩が見えない程にワカメがびっしりと生え、アラメは殆どなかった。しかし、今年(2004年)はワカメが不漁でアラメが豊漁だった。明治・大正期の大藻類学者、遠藤吉三郎先生と岡村金太郎先生が互いに逆に呼んだアラメとカヂメは、クロメやツルアラメをさす地方が多い。例えば、石川県輪島の朝市で売っているカヂメはツルアラメの事だし、輪島市内の大沢と上大沢は2キロ程しか離れてないのに、アラメとカヂメの呼称が逆だ。住吉神社のアラメを、分類学の鰺坂哲郎博士に鑑定して貰うと、クロメとツルアラメの2種である事が分かった(写真参照)。

関門海峡のクロメ(下、長さ38センチ)とツルアラメ(上)

 

 住吉大神は海の神様である。摂津の國(大阪市)一宮、住吉大社の住吉大神は和魂(にきみたま)と言い、船の方向を決める。古く、にきめ、と言われたワカメが依代(神の宿る所)で、長門國一宮、住吉神社の住吉大神は荒魂(あらみたま)と呼ばれ、船の操縦を決め、アラメが依代だ。日本書紀巻九の神功皇后記には、和魂は王身の寿命を守り、荒魂は軍船を導く、とある。古代朝鮮の新羅に遠征し、神威に依り戦勝したと言う神功皇后に和布刈神事の起原を求めているのも軍事的意義が大きかったのだろう。例えば、1274年と1281年の元寇後も大陸や朝鮮半島の脅威は大きく、北条宣時や貞時は異国降伏祈祷を住吉神社に頼んでいる(住吉神社史料)。かくして住吉神社は瀬戸内海で大きな信仰を集めた。

 下関では、どんな荒天でも和布刈の時は住吉大神のご加護で静まると伝わる。今年も、神社から壇ノ浦への往路は激しく吹雪いたが、壇ノ浦に着いて祝詞を上げ、餅を焼いて食べ、長柄の和布刈鎌(挿し絵)で和布刈をしている約1時間は吹雪がピタリと止んだ。和布刈を無事終え、刈ったワカメとアラメをシュロ縄で編んだ和布入れ篭(挿し絵)に入れて復路に着くとまた吹雪き出したのは不思議だった。壇の浦で松明の火を小さくし、提灯の火を残して数台の車に分乗したが、偶然行きと同じ車だった。運転手は氏子だが、福島県郡山の大学を出たスキー好きで、冬道に慣れ、約2センチの積雪は何ともなかった。15分程で神社近くの国道に着くと、松明の火を大きくし、10分程歩いて神社に戻った。

 

和布刈神事の資料  

 「長門国一ノ宮住吉神社史料」と言う、上下二冊の立派な本が住吉神社にある。和布刈神事について漢文の和布苅手形二通の書状が残る。一は1675年。「殿様お国へ遊ばされ御座候年は、壇ノ浦和布刈場に極月二十九日夜受け取り、お館お台所へ納め来たり候間、お渡し下さるべく候、以上。延宝三年極月」。即ち「殿様が国元に居る年は、壇ノ浦の和布刈の場所で1229日(この年は29日が大晦日)の夜、刈ったワカメを受け取り、城館の台所へ持って来て渡す様に。意訳」と言う、毛利の殿様のワカメ受け取りの話。他は1679年、「今月晦日の夜、赤間関文司に於ける神事、神前の和布を取られ候以後、公儀より例年の如くに、お取り成され候につきて、前田村百姓台人庄屋召し連れまかり出で候條、右の外、猥に取り申す者これあり候はば、曲事仰せ付けられ候。以上。延宝七年極月二十七日」とある。つまり「大晦日の夜、壇ノ浦門司の神事のワカメを、神様の分として取った後、幕府が例年通り貰う件については、前田村の百姓や庄屋を連れて行く様に。その他の者で、みだりにワカメを取る者があれば、悪事とみなす」と言う訳で、下々には取るなと言いつけておいて、幕府は和布刈のワカメを貰って、ワカメを賞味し、住吉神社の御利益を得たのだろう。また現在は元旦未明とされる和布刈神事は、昔は大晦日深夜の行事と考えられていた。つまり、現在は午前0時に日付が変わるが、昔は未明深夜は前日で、夜明けと共に1日が始まった事もこの資料から分かり、興味深い。

 

献備祭(けんびさい)  

 和布刈後、午前四時頃神社に戻り、拝殿前で宮司以下和布刈参加者全員が二礼二拍手一礼し、和布刈の無事を報告、住吉大神に感謝した。その後、参加者は社務所奥の座敷に集まった。床の間には鎧兜が置かれている。神社から出た食事の献立は酒、刺身(ブリ、ホタテ、タコ)、味噌汁(ワカメ、油揚、椎茸、大根)に御飯。壇ノ浦迄行った神職の方達と我々供奉員は一緒に食事をし、他の神職の方や神子さんが台所の方で食事の世話をして下さった。年配の経験者の昔話も出て、食事は美味しく和やかだった。昔は、壇ノ浦の大干潮で逃げ遅れたカレイなどの魚、タコ、それに関門海峡の主ではないかと言う様な20cmを越えるサザエ等が採れ、料理して皆で食べたそうだ(下関市、藤本正躬氏、私信)。

 午前六時。時折激しく吹雪が舞い込む拝殿と本殿で献備祭が厳かに行われた。ここからは旧暦でも新年となり、一般に公開され、テレビカメラが入った。献備祭には、神職六人全員と氏子数人が参加したが、私以外の供奉員や神子(みこ)さんは参加しなかった。笛や太鼓が鳴り、宮司と禰宜(ねぎ)が祝詞をあげた。神職達は、刈り採ったワカメとアラメの他、昆布、大根、ゴボウ等の神饌を、生の梅の小枝を箸とし、本殿西第一殿の住吉大神に供えた。私は前に座り神事を拝見。神妙に拝礼や拍手をして畏まっていた。祝詞は「掛巻も荒魂『かけまくもあらみたま。口に出して言うのさえ恐れ多い住吉大神、の意』」で始まり、気長足姫(おきながたらしひめ、神功『じんぐう』皇后の名)が聞き取れたが、他はよく分からない。祝詞も秘事で教えて貰えない。その後、献備祭の終わり近く、玉串を神前に捧げる二人中の一人に当てられた。特別のご好意だろう。私は榊の小枝に白い紙のついた玉串を、生まれて始めて神前に捧げた。夜が明けて来た七時前に献備祭は無事終わった。

 ワカメは住吉大神に供えるだけでなく、献備祭の後、ハガキ大のビニール袋に詰め、一袋二百円で売る。当日用が五千袋、地方発送が千袋。縁起物で旧正月の雑煮や味噌汁に入れて食べる。一方、アラメは荒魂(あらみたま、住吉大神)の依代(よりしろ)で、刻んで味噌汁に入れると、トロロの様に旨いのだが食べない。この時期のアラメを生で食べたが、ヨードの匂いが強く、渋くてまずいからだろう。境内では神職達がお酒を出したり、お守りの矢やお札を売ったり、また社務所の前では氏子の婦人部の人達が参詣者に甘酒を用意したりしていた。また、農具、植木の市も立ち、終日賑わう。しかし、今年は寒波で参拝客が少なかった様だ。私はホテルに戻り休息を取る事にした。(続く)

2004年4月

クョスコニョ    [1] 
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