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  08.12.08 天才と大発見-3
 

天才数学者・岡潔(おか・きよし)

 小学校の頃、我が家は京都、東山の麓、永観堂町にあった。永観堂(禅林寺)は境内が美しく、趣の深い古池があるが、歩いて15分ぐらいだった。永観堂から南へ行くと南禅寺、北へ行くと若王子から哲学の道を経て鹿ヶ谷(ししがたに)、銀閣寺へ至る。また、家から北西へ数百メートル行くと、岡崎黒谷から真如堂へと続く。夏の夕食後とか休日、両親に連れられ、妹や弟と散歩したり、また友達とも遊んだ。

 小学2年生の3学期。私は学芸会の劇に出る事になり、藁半紙に謄写版で印刷した分厚い台本を渡された。それで、1月末か2月初めの雨上がりの日曜の午後、父に連れられ、岡崎の丸太町通り沿いの文房具屋に紙ばさみを買いに行く事になった。終わると父は、秋月さんの家に行こう、と言う。以前伺った事のある秋月康夫先生は京大理学部数学教室の先生で、父も三高・京大で数学を習った。住居は岡崎動物園に行く大通りより一筋東の小道を南へ下がった左側。門を入り笹の植わった小庭を通り、戸を開けると土間があり、左手に八畳程の座敷があった。秋月先生や奥様はいつもの様に喜んで迎えて下さった。ところがその日は、汚い外套(オーバー)を着、不精髭に目ヤニだらけの痩せた小父さんが、左奥の押入を背にし、胡座をかいて座って居た。私はルンペンかと思い気味が悪かった。ルンペンは今はホームレスと言われるが、最近のホームレスの方が余程綺麗である。入り口近く、父の陰に隠れて座り、もし目ヤニの小父さんがこちらに来たら、土間から外に逃げる積もりだった。早く帰りたかったのに、父はどっかりと腰をおろしてしまった。すると秋月先生は、「そうや、ええ酒があったんや」とか仰って、奥から上等のお酒を持って来られた。それを見て目ヤニの小父さんは、「ワシが居る時は出してくれんで、濱田君が来たら出すんやな」と笑いながらイヤミを言った。秋月先生も、「イヤ、そう言う訳やないんや」と笑ってられた。私は、父がルンペンの様な小父さんと知り合いなのが解り妙な気持ちだったが、少し安心もした。私は秋月先生の奥様からお菓子を頂き、その間、男三人は酒を飲みながら話をしていた。

 一時間程して、父は秋月家に別れを告げた。帰る道すがら、私は父に、「あの人は誰?何で、部屋の中で外套を着てるの?何で顔を洗わないの?」等と尋ねた。すると父は「天皇陛下から褒美(学士院賞。後に文化勲章受章)を貰った数学の先生や」と言った。父が三高で数学を習った岡潔先生(1901-1978)だったが変人で、まさに、天才と気違いは紙一重、の様な方であった。後で知った話だが、多変数解析函数論とかが専門で、それまで未解決の大問題をたった

一人で全部解決された。それで、Kiyoshi Okaと言うのは2030人の優秀な数学者の集団名だと、ヨーロッパの数学者達が思っていた程だそうだ。

 父に依ると、三高の授業では、「今日はこの問題を解く」と言って、難しい数式や図を黒板いっぱいに書き、一度消して続きをどんどん書いて行くうちに、チョークを持つ手がハタと止まる。大分考えた末「うーん、分からん!」と言って、今まで黒板いっぱいに書いた図や数式を全部消し、プリプリして教室を出て行かれた事もあるそうだ。小学校の先生とは大分違うなと思いながら、それで学生はどうしたん?と父に尋ねると、黒板の数式を一生懸命写していた学生はポカンとしてしまったらしい。それでも、学生が次の授業にまた来るのは、例えば、岡先生はユークリッド幾何学の定理を、今までとは違う独自の方法で全て証明されるなど、深い学問的魅力があったかららしい。他人のやった方法で自分の学問を組み立てるのが嫌いだったのだ。矢張り三高で岡先生の授業を受けた朝永振一郎や湯川秀樹も、「人々を生き返らせる冷風のように,新鮮な空気の漂う時間があった。それは岡潔先生と秋月康夫先生の数学演習の時間であった(朝永振一郎『わが師わが友』講談社文庫)と言っている。ところが、後に広島高等師範で教えられた時には、授業がデタラメだと学生から抗議を受けて辞職され、12年も郷里の和歌山で、極貧の中、数学の研究を続けられた。ルンペン状風采はこの間に獲得されたのかも知れない。

 私は後年、大学生の頃、岡先生の随筆「春宵十話」を読んだ。日本文化や宗教にも造詣の深い面白い随筆だったが、その中にお孫さんの心の発達の話が出て来た。岡先生には何度も驚かされたが、孫がいると言う事は奥さんがいると言う事で、この時も随分驚いた。

 

藻類学者・遠藤吉三郎

 日本人藻類学者で、岡潔の様に逸話の多い天才と言えば、北大教授だった遠藤吉三郎(18741921)だろう。宮部金吾(1860-1951)や岡村金太郎(1867-1935)と並ぶ日本藻類学の祖の彼には、エンドウコンブ(Laminaria yendoana、コンブ属)、エンドウモク(Sargassum yendoiホンダワラ属)、エンドウイトグサ(Polysiphonia yendoi紅藻イトグサ属)など、十数種の海藻の名が贈られている。

 遠藤の「海産植物学、1911」は藻類学の名著で、根を伴った海藻の図が多い。潜水が得意で、北の海に潜り海藻を根から採集し、濱に打ち上げの海藻は標本にしなかったという彼の面目躍如である。主な海藻について各地の方言や採集法、食べ方を記し、古事記など様々な古典を引用して海藻の語源を論じ、海藻を多角的に見ている。例えば各種昆布について、組織の顕微鏡図、成分、分布図の他、採集用具、採集法、製品図までも含まれているのだ。

 明治期の藻類学者は多くの海藻の正式和名を通称や方言、地名を元にして決めた。コンブ、ヒジキ、カヂメ、アラメ、ハバノリ、ソゾなど、今日我々が藻類学上の正式和名として用いる名前が、今でも民間で全国的に通用する事からも分かる。また、遠藤カヂメに岡村アラメと言う様に、岡村がアラメと言えば遠藤はカヂメと言って、互いに対向意識を持っていた。「海産植物学」でも、カヂメとアラメが今日の和名とは逆になっているところが面白い。しかし、全国的にも、また能登輪島の隣の部落間でも、アラメとカヂメ(クロメ)を逆に呼ぶ地域はいくらでもあるから、彼等が理由もなく対向意識を持っていたのでは決してないと思う。

 今日問題の、海藻が消失する「磯焼け」についても、遠藤は農商務省報告書(1903)において、「海藻磯焼の現象は、地殻ノ変動、生物の生存競争、海藻濫獲の為ではなく、原因は被害地より遙かに距たった山林濫伐の結果に基づく様だ。水源の樹木繁茂し平時と出水時と其水量に多大の差異がなければ汽水区域消長区域共に一定し、淡水の消長今日の如く甚だしくなければ、消長区域ノ海藻及び魚介はほぼ一定し、磯焼区域に淡水の襲来する事もなく、従って適度の逆潮と黒潮と互に相往来し、海藻繁茂し魚介の増加を見ん(著者、意訳)」と述べた。磯焼けについては、諸説紛々だが、今日、森林を伐採したりダムを造ると磯焼けになるので、自然全体を把握していた遠藤説は大変な慧眼だったと思う。

 彼は英国・ドイツ・ノルウェイに留学して北欧の民俗にも詳しく、森鴎外のイプセンの訳を誤訳だらけだと批判した。初め匿名だったので、鴎外は高飛車に反論してきたが、本名と所属を名乗ったところ、黙ってしまったそうだ(濱田稔、近代日本生物学者小伝、平河出版、1988)。彼はまた、ノルウェイ式スキーの導入者でもあり、スキーの名手だった。

 遠藤は、北大の新学部増設などに際し、学内の人事その他に非常な疑問と不満を抱き、「【僕の家】は大黒柱にも腐りが入り増築には耐えられない」と言う随筆を発表したところ、賛意の投書多数で、新聞でも話題になった。これを見た当時の学長は彼を1919年3月休職処分にし、結局復職する事なく、二年後亡くなった。これは、単に藻類学だけでなく、日本の科学や文化の発展にとっても大きな損失であった。

 日本にも沢山の天才がいるが、彼等の才能が発揮されるには、欧米追随ではなくて日本独自の風土と心を大切にし、反骨自由の精神を尊ぶ社会的風土の重要性を強く感じる。

2005年6月

クョスコニョ    [1] 
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