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「330000」
  08.07.28 旧満州道草の旅-3
 

大連のネムノキ

 大連ではいたる所にネムノキがあり、柔和で華やかなピンクの花を咲かせていた。ネムノキは中国や日本が原産地で、我が家にもあるので、異国で見ると懐かしい。しかし、京都で小さい時から殆ど毎日の様に見ていた暖地系の楠は、富山では植物園など特殊な所でしか見られない。勿論、大連でも見られず、一抹の寂しさを覚える。夏の暑さは京都も富山も大連も変わらないから、冬の寒さが楠の分布を決める要因だろう。

 中国で珍しく思ったり驚いた事は沢山あるが、戦前の日本軍が作った満州国を「偽満州国」と呼ぶのにも驚いた。中国では12億人の漢民族が大多数を占め、少数民族ではチワン族千五百万人につぎ、満州族は一千万人を数え、第三位である。満州族に失礼ではないか、と満州族の血も引くある中国人に尋ねたら、満州国は日本の傀儡国だったから「偽満州国」が正しいと言う。中国に主権を侵されているチベット等は、さしづめ「偽チベット」と呼ぶべきだろう。日本だって、見方によってはアメリカの植民地で、傀儡政権が支配していると見なす人もいるから、「偽日本国」と呼ばれかねない。戦前の日本の軍国主義を擁護したくはないが、私が満州族なら、「偽満州国」とは呼ばれたくない。

 

大連から瀋陽(沈阻)へ

 学会が終わり、旧満州国の最大都市、人口720万の瀋陽(旧奉天)へ行った。大連から瀋陽(北駅)へは北東に直線距離で約380キロ。ほぼ真っ直ぐに鉄道が走る。大連大学日本語学科学生の祝洪黎君と一緒で安心だが、特急は大連駅を朝8時出発である。大学の宿舎から大連駅までは1時間程かかるが、大学付近は田舎で、早朝はバスがなく、タクシーも殆どない。それで、祝君のお父さんが朝6時半に大学の宿舎に車で迎えに来て呉れ、7時半頃大連駅に着いた。大連駅は朝から混雑していて、既に大勢の人が瀋陽行きの改札口で溢れる様に並んでいた。改札が始まり列車を見ると、明るい肌色を基調とし、窓枠の部分が青く縁取られ、窓の下には横に太く赤い線がすっきりと入った、なかなか格好良い特急列車が停まっていて、それに乗り込んだ。我々は日本で言えばグリーン車に相当する軟座に乗ったが、値段は一人片道87元(約1170円)と安い。座席指定であったが満席で、車掌は女性。夏休みのせいか家族連れもあり、編み物をしている女性もいて、和やかな雰囲気だ。途中、汽車の窓から外を見ると、ネムノキが咲いていた。しかし、水田や稲はなく、代わりにトウモロコシ畑が多く、地平線近くまで続いている所もある。また、廃屋の様な建物に住む人もいる。瀋陽北駅迄は途中二駅しか停まらず、殆ど走り詰めで昼の12時過ぎに着いた。

 

瀋陽の王宮(瀋陽故宮博物院)と御陵

 瀋陽の車は総じて大連より一段と古い。私が今春廃車にした車は10数年物で凹凸やすり傷に特徴があり、本人は忘れていても友人にはすぐ覚えられ、乗り心地も悪かったが、瀋陽ではまるで新車同然だ。廃車にしたのが恥ずかしく、また惜しまれる。瀋陽の車の凸凹の激しさ、タクシーなどの車内の不潔さ、そして神風運転は恐怖であった。

 さて、歴史を紐解くと、清国は満洲に住む女真族のヌルハチ(初代太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金が前身である。息子の第二代ホンタイジ(太宗)は明の北部と内モンゴルを征服し、1636年、大清皇帝と称して即位し、民族名を女真から文殊菩薩を意味する満州に改めた。第三代順治帝の時、李自成の乱で明が滅んだのに乗じ北京を奪い、瀋陽から北京に遷都し、さらに中国南部を平定、明の旧領をほぼ掌握した。結局、最初の二代の皇帝が都として住んだのが瀋陽で、王宮と二つの広大な御陵がある。

 

 

清朝第2代皇帝・ホンタイジの妻の寝室

 

 王宮は現在、瀋陽故宮博物院と呼ばれ博物館となっている。広さは約6ヘクタール。あちこちに宮殿が建ち、戦闘具、日用品、食器、書、画、彫刻、焼き物等々が飾ってある。また、ホンタイジの五人の妻の邸宅が軒を連ねていたが、どれも禅寺の座禅堂の様で、入り口を入ると広い土間があり、50cmぐらいの高さの居間や寝室(写真)、子供の遊び場等が3メートル位の幅で周りを囲み、台所もある。五人の妻は皆蒙古族出身であった。現在の人口から推定すると、満州族と蒙古族を合わせてやっと1%ぐらいだから、多妻結婚は少数民族が圧倒的多数の漢民族を支配する為の軍事同盟であった。清朝は満州族の王朝だと思っていたが、男系相続なので、後代になると満州族のDNAはY染色体に残るだけで、殆ど蒙古族のDNAに置換されていたのだ。また、沢山の皇子を巻き込んだ宮廷内の派閥抗争を防ぐ為に皇太子はおかず、皇帝の死後遺言書を開き後継者を決めた。従って、皇帝が亡くなり次期皇帝が定まって初めて前の皇后が決まるという仕組みだった。第四代から第六代の康煕、雍正、乾隆時代は清の最盛期で、乾隆帝の時、現在の中国の領土がほぼ定まった。

 

 

ホンタイジの北陵(昭陵)の内部。門から直線上に1時間程歩く間に、多くの楼門や城館や池などがあり、

その一番奥に、丸くて白いホンタイジの墓が僅かに見えている。

 

 康煕帝や乾隆帝は北京から数回、ヌルハチの東陵とホンタイジの北陵(昭陵)を参拝している。我々も二つの陵を参拝したが、北陵は332ヘクタールもある。入り口の下馬牌から神道(しんどう)と呼ばれる道を美しい庭を見ながら北進し、門、城、殿などと呼ばれる大建造物を幾つも通って、約一時間。やっと第二代皇帝ホンタイジの陵にたどり着いた。直径70メートル位の円墳で、頂上には松とおぼしき大木が一本植わっていた。京都の祇園祭の山や、韓国のタルジップ(月の家)、島根県大田市のグロなどに似ている。皇帝の霊が天に昇り、また同時に降り立つ所でもある事を意味している様に思われる。

 東陵は、例の恐怖のタクシーで高速道路を30分近くとばしてやっとたどり着いた。ここは入り口から御陵までは割合近いが、敷地は500ヘクタールもあるそうだ。あまりの広大さ、スケールの大きさに、私は度胆を抜かれる様な驚きを覚えた。

 

中国人の海藻食

 旅行中、私はホテルや食堂でいつも海藻入りのメニューを気を付けて探した。また、店員にも海藻の話をしつこく聞いて、厨房を覗き込んだりもしたが殆どなかった。大連ではコンブを使った料理が少し出たが、瀋陽では餃子の入ったスープに海苔を少し浮かしたものが出ただけである。海藻料理かと思って注文しても、キクラゲだった事もある。

 戦前、日本の大槻洋四郎と言う海藻学者が大連で昆布の養殖に成功した。戦後、中国政府は彼を長く抑留して研究させ、昆布の養殖が大連を中心に広まり、現在中国は世界一の昆布やワカメの生産国らしい。しかし、ワカメは日本への輸出用で、中国人はワカメを全く食べない。大都市で売っていても、それは日本人や韓国人向けである。私は今秋上海と蘇州を訪ねた。台湾に近い中国南部では海藻を食べるそうだが、上海では海藻を殆ど食べない。

 日本の海藻食文化の殆どは朝鮮南部や東部が起源地で、古来朝鮮半島から大勢の人が日本に移住し、日本に伝わった文化であろう。特にワカメは分布域の関係で、その食文化は世界的にも日韓(朝)独特の極めて特徴的な食文化である事を、今回の旅で実感した。

2004年12月

クョスコニョ    [1] 
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