魚の心が分かる荘子(そうし)
中国の古典、荘子秋水篇にある話:荘子が恵子(けいし)と一緒に濠(ごう)水のほとりで遊んだ。荘子は言った。「ハヤがのびのびと自由に泳ぎ回っている。これこそ魚の楽しみだよ」。ところが恵子は「君は魚ではない。どうして魚の楽しみがわかろうか」。荘子「君は僕ではない。どうして僕が魚の楽しみを分かってないと分かろうか」。恵子「僕は君でないから、勿論君の事は分からない。君は勿論、魚ではないから、君に魚の楽しみが分からない事も確実だよ」。荘子「まあ、初めにかえって考えてみよう。君は、【君にどうして魚の楽しみがわかろうか】と言ったが、それは既に僕の知識の程度を知った上で、僕に問いかけたのだ。(君は僕ではなくても、僕の事を分かっているじゃないか)。僕は濠水のほとりで魚の楽しみが分かったのだ」(荘子、金谷治、岩波文庫、一部改)。結局は、荘子ばかりか恵子も、魚にも楽しむ心がある事を認めざるをえなかった様で興味深い。
人に心はあるか?
人間の心には多くの働きがあり、例えば気持ちが良いとか悪いとか、好きだとか嫌いだとか、可哀想だとか羨ましいとか、素晴らしいとか馬鹿々々しいとか言う類で、理屈では説明できない情緒的、感情的なものがある。自分に心があるとすれば、他人にも心がある。心は目で見るのではなく、自分の心も他人の心も、自分の心で見る。
例えば、世界のあちこちでテロが起こる。米英やイスラエルは、テロ犯はイスラム過激派だとして、彼等を監視・逮捕し、彼等の住居を、パレスチナ、アフガニスタン、イラクなどで徹底的に破壊し、大量虐殺したが何の効果もない。むしろ戦争に巻き込まれた無実の人に新たな憎しみの心を植え付け、明日のテロリストを大量に育てる事になる。本当のテロとの戦いとは、自爆してまでテロを行う人達の悲しみと憤りに満ちた心の内に思いを致す事であり、富める米英やイスラエルの軍事支配や経済支配、つまり帝国主義的・資本主義的横暴に対する彼等のやり場のない思いを汲み取る事でしかない。特にアメリカは、相手国やイデオロギーは違っても、過去にベトナム、中南米、リビア、イラン等々で、無数の過ちを繰り返して来たのではなかっただろうか?異民族異宗教の人に心があると感じるのも、自らの心だ。他人の心を見ようとする心が、自分に無ければ相手に心が有る事さえ分からない。
恐竜にも心があった
さて、人に心があるとすれば、桃太郎ではないが、哺乳類の猿にも犬にも、鳥類のキジにも心が有るだろう。爬虫類のヘビやトカゲにも心は有るに違いない。富山県の小杉町に住む化石学者、葉室俊和氏の話に依ると、富山市八尾(やつお)町から見つかった2億年前の恐竜の足跡の化石を観察すると、数頭の大人の恐竜が一頭の子供の恐竜を真ん中に囲み、保護しながら歩いていた事が分かったそうだ。恐竜にも子を思う心があったのだ。
また、分類学的にもっと下等な魚類のタイやヒラメ、ドジョウやメダカにも心は有るだろう。勿論、荘子の見たハヤにも心がある。棘皮動物のウニやナマコやヒトデにだって、さらに下等な昆虫類のアリやホタルにも心が有るに違いない。一寸の虫にも五分の魂、である。さらに軟体動物のタコやイカや貝にも、環形動物のミミズや線形動物の回虫にだって、ずっと下等な腔腸動物のクラゲにだって心は有るだろう。
心の起源を訪ねれば、食欲と性欲に関する、快不快の感情ではないだろうか。だとすれば、動物の中で一番下等な原生動物のゾウリムシやアメーバーでも心を持っているに違いない。
遺伝学者のレーダーバーグは大腸菌の性を研究してノーベル賞を受賞した。植物は勿論、大腸菌のようなバクテリアにも、食欲や性欲がある。餌に群がって増殖し、異性を見つけて自分の遺伝子を注ぎ込む。彼等は人間のように、可哀想だとかいい気味だとか妬ましいというような高等な感情(?)は持っていないだろうが、自分にとってここは快か不快か、この相手は同じ種に属する異性か恋敵の同性か?心の中にそういう認識は持っている。もし、持っていなければ生命を維持して行くことが出来ない筈だ。つまり、植物やさらに細菌などにも、より良く生きたいとか子孫を残したいという心が動物同様に有る。
藻に心はあるか?
ミカヅキモの気持ちになってみると、藻にも心がある事がよく分かる。春になると明るくなって、ひたひたと浅く水が張り、木の葉などが分解されてよく澄んだ水辺では、ミカヅキモはとても気持ち良さそうに見える。その様な所では、成長した年頃の男女のミカヅキモが恋をし、合体する。この時の心理は人間もミカヅキモも同じで、男のミカヅキモも女のミカヅキモもそれぞれに増えて異性に会えて嬉しいだろうし、気分も高鳴っているに違いない。そしてお互いに相手を見つけて気持ち良さそうに接合している。
しかし、水銀やカドミウム、その他様々な環境汚染物質が混入すれば不愉快だ。ミカヅキモは人間が感じるよりも千倍以上低い濃度でそれを感じてもがき苦しみ、遂に死ぬ。人間よりも千倍以上繊細な心を持っているに違いない。話はしないが、心はある。細胞の状態を見ると、彼等一匹一匹の気持ちが分かる様な気がする。また、ミカヅキモが住んでいる水辺に出かけ、いつもの所にミカヅキモがいないと、どうしたのかな、公害で死んでしまったのだろうか?苦しんでいないかな?などと心配になる。
ミカヅキモには心がないと確信している人に、ミカヅキモに心がある事をいくら説明しても分かって貰えない。ミカヅキモに心などは絶対ないと言うその人の心の中にはミカヅキモがない。ミカヅキモの心を見ようとする心が無ければ、ミカヅキモの心は見えない。自然の中の生き物の心は、益々見え難くなっている。
我思う故に我有り
デカルトの「方法序説」中の「我思う故に我あり」は名言である。「自分が存在するというのは夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か?本当は自分は存在しないのではないだろうか?」とどんなに疑ってみても、疑っている主体、つまり自分、が存在することだけは確かだ、というのだ。ここ迄は成る程と思うが、その後すぐに、「従って、神が存在することは確かである」となり、信心の薄い私は大変な飛躍だと感じて理解出来なくなる。デカルトの「我思う、故に我在り」は、「我に心在る、故に我在り」。逆に「我在れば、我思う」であり、「我在れば、我に心有り」で、意識は我とその属するキリスト教社会の中にこもり勝ちだ。異教徒にも心があり、動物や植物、バクテリアにも心があろうなどとは思わない。インドでお釈迦様が亡くなられた時は草木も泣いた。荘子は魚の心が分かる。古神道では、身の回りのどこにでも神様がいる。東洋文明の豊かさを感じる。ややもすれば、西洋文明に充足感の得られない今日、豊かな東洋文明がもっと理解されても良いのではないだろうか。
2005年8月
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