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  韓神新羅(からかみしらぎ)神社と海藻文化
 

韓神新羅(からかみしらぎ)神社と海藻文化        

 

五十猛(いそたけ)神社

 海藻文化の起源を求めて、20002月以来、島根県西部・石見(いわみ)地方の大田市に五十猛(いそたけ、又は、いたきそ)神社と韓神新羅神社を何 度か訪ねた。JR大田市駅から9号線を西に走る。五十猛の明治時代の戸籍は磯竹だったそうだが、右手に見える日本海は、ひとたび荒れると猛々しい磯の意 味かと思う程、灰色の波が大きくうねる。

 五十猛神社はJR五十猛駅の東、閑静な山手の住宅地にあった。千坪近い横長の敷地に数十坪程の神社が建つ。主祭神は朝鮮新羅と関係の深い須佐之男命 (すさのおのみこと)の息子の五十猛神(いそたけのかみ、いたけるのかみ)で、妹の抓津(つまつ、抓は木偏が正字)姫神・大屋津(おおやつ)姫神、神功皇后・応仁天皇・武内宿禰を合祀する。神社のある湊地区には左義長(ドンド)と似た神木(せんぼく)さん(写真)の行事がある。正月11日に地区の人が集まり、葉の付いた長い竹(神木)を20本程建てて農業の神様を迎え、長い杵で餅をついて皆で食べる。五十猛神社の林治雄宮司の話に依ると、この付近は

真宗の勢力が強く、神社の方は流行らないそうだ。五十猛地区は氏子百軒。昔は、葬式も男だけが神式で、女は仏式だったそうだ。

 

韓神新羅神社とグロ

 五十猛神社から9号線に出て、再び西に10分程走り、右手の海側におりると大浦地区で、五十猛魚港の西側高台に韓神新羅神社がある。ここは氏子500軒と多い。お参りの後、通りがかった二人の年輩の女性に神社の由来を尋ねると、私がロシア帽・長靴姿だったせいか、私らは何も知らん、重本さんに聞いてくれ、と怯えて逃げ去った。友人は、私が朝鮮人に似てるので、拉致されると思ったのだ、と言う。私は髭を伸ばすとベトナムのホーチミン元大統領に似ていたせいか、アメリカでは、ベトナム人からベトナム語でよく話しかけられた。中国人からは、中国南部の顔だと言われた事もある。それで、拙顔は中国南部かベトナム系と信じて来た。金正日の手下で拉致などするように見えたとしたら、とんでもない誤解である。当時行方不明事件が頻発し、日本海側ではかなり恐れられ、北朝鮮の仕業だということもほぼ分かっていたようだ。

 重本忠幸さんの家は神社から約150メートル東にあった。喜寿になった重本さんは韓神新羅神社の氏子総代。現役の漁師だったが、海が時化て家に居られた。来意を告げると、そういう事ならお話しましょう、と穏やかに言って我々を先程の神社に案内し、拝殿の鍵を開け、ストーブの側で神社の由来や海藻について、以下のように話して下さった。

 韓神新羅神社は元々五十猛神社の境内社で、通称明神さん。明治時代、大浦に漁師が増えたので、大漁と航海安全祈願の為、明治40年(1907年)から2年かけて本殿を大浦に移し、明治43年に拝殿が建てられた。神紋は出雲大社と同じ亀甲剣花菱(きっこうけんはなびし)。神主は五十猛神社と同じ林さん。在日朝鮮人・韓国人ばかりか、韓国からもお参りがあるそうだ。主祭神は須佐之男命で、子供の五十猛神・大屋津姫神・抓津姫神を合祀する。本社の右奥 海側に舟魂(ふなだま)神社がある。舟魂は、琉球、新羅、日本の神話にも出てくる龍神様の事で女神である。大浦地区から少し離れた沖に点々と浮かぶ小さな島の神島(かみしま)には、朝鮮から須佐之男命や五十猛神、父子が上陸したと伝えられ、須佐之男命が新羅から梅を持ち帰り植えたとされる野梅(のばえ)、五十猛と大屋津が別れた神別れ坂、韓子山(からごやま)、韓島(からしま)等の朝鮮由来の地名が残り、数キロ離れた所には大屋姫命神社、抓津姫神を祀る漢女(からめ、元は韓女?)神社もある。

 大浦地区では、正月11日〜15日に新羅から海神様を迎える「グロ」を行う。左義長やどんどの原型の行事のようだ。昔は三個所で別々に行ったが、今は一つにまとまり、韓神新羅神社の前の海岸で行う。グロは先ず、先端に葉の付いた約20メートルの真竹(今は孟宗竹)を中央に建てる(神木、しんぼく、と言う)。京都の祇園祭で鉾の上に真木(しんぎ)を立て、その先に長刀などを結びつけるのとも似ている。神木の周囲には竹で高さ約二メートルの囲いや天井を作り、完成すると直径約十メートルのドーム型の小屋になる。グロの期間中は朝から深夜まで地区の人がグロに集まり、餅をつき、スルメやイモを焼いて食 べる。グロは十五日朝に解体し、竹垣等は昔は家に持ち帰り、風や高波を防いだ。石川県輪島市の大沢や上大沢にある、高さ約3メートルの間垣と同じ物が大浦にもあったのだ。正月のしめなわ飾りやグロの残りを一緒に燃やして行事が終わる。グロは韓国の月の家(タルヂップ)と似た行事である。

 

神事・食事・医事に用いた海藻

 柿本人麻呂が、「石見の海(み)(中略)荒磯(ありそ)の上に か青なる玉藻沖つ藻(中略)浪の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を(万葉集131)」、つまり「任地の石見の荒磯の上の青い玉藻(ここでは、恐らくホンダワラ属の藻)が波と共に寄せて来るように、そのように寄って来 て共に寝た妻を」と詠んだ如く、石見(いわみ)は海藻と縁が深く、大浦地区は海藻文化が豊かである。

 褐藻類ホンダワラ属のジンボサ(ナラサモの大浦方言、写真)は、35-40cmに成長した所を刈り、三本ほど束にして結わえたのを神主さんが正月に塩水を浸けて振り、御幣(ごへい)のようにお祓いや浄めに使う。

 韓国の海藻学者、李仁圭(り・いんきゅう)先生に依ると、日本と朝鮮半島の海藻の90%は互いに共通で、昔ほどではないが韓国でもホンダワラをよく食べる。大浦でもササボバ(ホンダワラ属ホンダワラの大浦方言)を食べる。121月に芽が出て、3月頃3540cmに成熟したのを刈る。ここのホンダワラはそのままでは硬いので、束ねて干し、1年寝かせて水に戻し、柔らかく煮たり、更に炒めて食べる。葬式の際、親戚などに出される。韓国では法事(祭事、チェサ)の際に用いられるし、輪島では、寒天で作ったスイゼン(本連19話)を法事に出す。カヂメ(クロメの方言)やアラメは、湯がいて水で

晒し、油で炒め、ゴマ和えか白和えにする。島根県石見地方の大浦や浜田では、カヂメやアラメをみじん切りにして味噌汁に入れる。ヌルヌルしたアルギン酸が出てとても美味しい。この食べ方は珍しく、重本さんが40代の時、漁に行った対馬で教わったそうだ。輪島でも食べるが、カシカメ(ハバノリの島根県方言)は、みじん切りに刻んで酢の物にしたり、炒めて食べる。乾燥して、海苔同様に食べても美味しい。

 紅藻では、ウミゾウメンを酢の物にするととても美味しいが、最近は生えてない。ムカデノリ(オオムカデノリの方言)なども食用にした。近縁のフクンバ(ツルツルの方言)も最近少なくなったが、重本さんが小さい頃は、風船の代わりに膨らませて遊んだそうだ。勿論、テングサ(マクサ)もトコロテンにする。紅藻の多くは炊くとノリのようになり、壁土に梳き込んで固めた。五十猛で左官屋が多いのは、マクサやフノリが大量に採れたからだろう。

 緑藻のキンギンソウ(ミルの方言、写真)は干して煎じ、虫下しにした。私は富山や能登の海で泳ぐと、よくミルを食べたが、韓国で買った干物のミルは臭くて固くまずかった。李仁圭先生に依ると、韓国ではキムチに入れて食べるそうだ。

 

須佐之男命は実在では?

 須佐之男命と五十猛神は、日本・新羅間を往復した(日本書紀)。五十猛・大屋などは神名だが、大浦近辺の地名でもある。大田(テジョン)市は韓国南部にもある。須佐之男命は実在の新羅の王族で、石見大田の磯竹に上陸し、島根・鳥取の統治と産業発展に尽くした方ではないだろうか。須佐之男命の最後は、総本社でお墓があり、子孫が代々宮司を勤め、摂社には韓国(からくに)神社もある、出雲日御碕(ひのみさき)神社に葬られた方のように思われる。乱暴で 高天原から追放された神話は、高句麗・百済系の大和朝廷・天皇家が、新羅・石見・出雲系の須佐之男命・大国主命を敗った後、汚名を着せたのではないだろうか。出雲の美保関・日御碕、石見の大浦のような良港に、海藻食や海藻神事がよく残っているのは、海藻文化の多くが外来の海洋文化だったからだと思われ る。出雲や石見は神話と古代朝鮮が現代に生きているが、能登、更に越中・越後も海で密に繋がっていたのである。

2002.12

クョスコニョ    [1] 
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