総計: 1627716  今日: 2399  昨日: 228       Home Search SiteMap E-Mail Admin Page
藻知藻愛(藻食文化を考える会)
日記
コラム
坂村真民先生の詩
もっと藻の話
マイクロアルジェ
 
 
 過去のもっと藻の話 
  自己紹介
    この稚拙なHPは誰の? と問い合わせがあったので・・・
  藻食文化を考える会
    藻食文化を考える会を立ち上げました
  講演会のお知らせ
    日本学術振興会181委員会
 「330000」を目指したいと思います!
「330000」
  08.01.11 豊前國(ぶぜんのくに)小倉藩 門司 和布刈(めかり)神社の和布刈神事
 

写真の説明:和布刈神社の拝殿。この奥に神殿がある。

 

和布刈(めかり)神社へ

 20033月初旬、本連載でも以前触れたことのある、和布刈神事で有名な北九州市門司の和布刈神社を訪ねた。門司港駅からタクシーだと五分程で神社に着く。鳥居をくぐると、関門海峡に接して境内がある。左手(海側)にソテツを見ながら奥に進むと、右手に社務所兼住宅があり、そこで元旦に八十五歳になられた高瀬家信宮司にお会いした。高瀬家は豊前小倉十五万石小笠原家の家臣。代々和布刈神社宮司を勤める家柄である。宮司は温厚な方で、昔の記憶がとても鮮明で、丁寧に話をされる老紳士であった。

 

和布刈神事公開のいきさつ

 高瀬宮司に依れば、ここは古来交通の要所で要塞の地。西国大名が重視した。幕末には英国に侵略され、対岸の下関では釣り鐘を大砲に見せかけて並べたが負けてしまい、毛利藩が10万両か20万両も英国に支払った。時代は下り、戦前は今の門司駅を大里(だいり)駅、今の門司港駅を門司駅と言い、兵士は武運長久を祈願してここから出港した。一晩にお守りを三百個作った事もある。宮司ご自身も昭和1320年迄、海軍に応召し、二十八区隊の「あさなぎ」に乗って東南アジアに行き、任務を終えて除隊と言う日に、香港で太平洋戦争開戦となり、海南島(中国広東省の南にある島)に上陸。シンガポールで軍艦足柄に乗り、操舵長としてバリ島、レイテ島に行ったら、十三隻の軍艦が沈められた。一隻に約千人が乗っていたので、一万三千人が亡くなった事になる。結局、日本は神風が吹いて戦争に勝つと言われたのに負けた。

 戦後、神社のお守りなど何の役にも立たない、日本の伝統や神社は駄目だ、と言われた。そこで、日本は戦争に負けたが、古くて貴重な伝統文化もある事を知って貰おうと、古来秘事で、付近の住民も固く雨戸を閉ざし、見てはならないとされた和布刈神事を昭和21年に公開した。すると、沢山の人が詰めかけて神社の前の濱に溢れ、危険な程であった。それからは宣伝を止めたが、見物人が沢山来る状態が続いている。

 

和布刈神事

 和布刈神社の祭神は、比売大神(ひめのおおかみ、天照大神)、日子穂々出見神(ひこほほでみのかみ、神武天皇の祖父)、鵜草葺不合神(うがやふきあえずのかみ、神武天皇の父)、豊玉比売神(とよたまひめのかみ、鵜草葺不合神の母)、安曇磯良神(あずみいそらのかみ、航海その他海の事を司る神)の五柱である。ワカメの採れない朝鮮半島西岸の百済と縁の深い皇室の先祖の神々が多いのが不思議である。同じ和布刈神事の行われる出雲の日御碕神社では、ワカメを産する朝鮮半島東岸の新羅系と言われる素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天照大神より高い場所に祀られているのとは大きく異なる。

 明治以後、和布刈神社は県社と格付けされ、宮司が国から派遣される事もなく、引き続き高瀬家が宮司を勤めたので社伝や古文書がよく残り、私もいくつか見せて頂いた。

 社伝によれば、西暦二百年。日本古代史の年代は約二百年ずれるので、恐らく西暦四百年頃、第十四代仲哀天皇妃・神功(じんぐう)皇后は新羅に遠征して勝利を収め、この地で和布刈神事を行った。記録では、醍醐天皇第四皇子重明親王の書いた「李部王記」に「元明天皇和銅三年(710)豊前國隼人神主和布刈御神事の和布(め、ワカメの事)を奉る」とあり、和布刈神事は少なくとも約千三百年前から続き、そのワカメが宮中に献上されていた事が分かる。ワカメは万物に先んじて年の初めに芽を出し、自然に繁茂するので幸福を招くとされ、神聖視された。縁起物で、新年の予祝行事として重んじられたのである。神事では、その年の豊漁、航海安全、五穀豊穣、無病息災なども祈る。

 神事は、毎年冬至の和布(め)繁茂の祈念祭をもって始まる。旧暦十二月一日には、予備を含めて松明を2本作る。奉仕の神職は神事の一週間前から別火(べっか)に入り(家族とかまどを別にする事)、潔斎する。

 神事の行われる旧暦大晦日の夜、新暦では元日の午前零時頃から、拝殿(写真)の前でホダ(木)を焚き、拝殿内で横笛、太鼓、擦鉦(すりかね)で雅楽を奏で、祝詞をあげお神楽(豊前神楽)を舞う。神様へお供えする神撰(しんせん)は、力の飯(いい、固く握ったご飯)を15個、福噌(ふくぞう、味噌と大根を炊いたもの)1個、歯固(はがため、大根の5センチ角を15個に切ったもの、これらは健康祈願の為)の他、三種の神器を意味する鏡餅(鏡)、菱(剣)、なまこ(曲玉)をウラジロとユズリハを敷いた三宝の上に載せて神前に供える。

 午前3時頃、3人の神官が和布刈神事を行う。1人が3メートルもある大きな松明(たいまつ)にホダの火を付けて足下を照らし、宮司が鎌でワカメを刈り、他が刈り取ったワカメを手桶に入れる。干満差が3メートル近い関門海峡は流れが速く早鞆(はやとも)の瀬戸と言うが、和布刈の時は年1番の干潮で、潮の流れが最も速く10ノット(時速18.5 km)を越える。寒中、雪が舞い風が吹いても約1時間、全身ずぶぬれで和布刈が行われる。こうして刈ったワカメは元朝(としのはじめ)の神供とし、天皇家、小倉藩主小笠原家や近隣の殿様に献上した。摂津の守や毛利元就からの受取書もある。

 昔は神事に先立ち、京都卜部家から烏帽子(えぼし)狩衣(かりぎぬ)着用の許可書が届いた。漢字が並んで少し読みにくいが「豊前國規矩郡門司隼人大明神之祠宮大森大蔵少埔元種恒例之神克(古の下は又が正字)祭礼参勤之時可着風折烏帽子狩衣者。神道裁許之状如件。寛永二十一年(甲申)八月二十九日。神道管領長上卜部朝臣兼里(花押)(句点は筆者)」とある。高瀬宮司は、烏帽子・狩衣着用を大袈裟に勿体ぶって許可して、それで京都の公家は飯を食ってたんですね、と笑いながらその書状を見せて下さった。この宮司さん、千数百年の伝統を破って和布刈神事を公開されただけあり、穏やかな老紳士ではあるが反骨精神があって、話が面白いのである。

 

和布刈神事の意味

 上述の様に、和布刈神事は神功皇后の故事に因む。神功皇后の存在や朝鮮征服が史実か否か、京都大学名誉教授で古代史の上田正昭先生が先日富山に来られたので伺ってみると、神功皇后の本名、気長足姫(おきながたらしひめ)という方は実在の方であろう。しかし、朝鮮側の資料と比較すると、朝鮮征服説には多くの疑問があり、史実とは考えられない。しかし、当時を含めて古代は、朝鮮と北九州との往来が非常に頻繁であった事は確実、との事であった。高瀬宮司の話でも、和布刈神社の西南数キロ、武蔵と小次郎が闘った厳流島付近には三韓に因んだ、樟葉(くずは、葛葉、百済の船が着いた所)、小森江(こもりえ、高麗入江、高句麗船が着いた所)、白木崎(新羅船が着いた所)等の地名が残り、韓国・朝鮮系の子孫が多いそうだ。また、対岸の壇ノ浦で和布刈神事を行う下関の住吉神社近辺(新下関駅近く)にも韓国・朝鮮系の子孫が多いという。

 早春の日暮れ、高瀬宮司に案内して頂き、社務所を出て奥の拝殿に参った。さらに奥にはお稲荷さんと恵比寿さんの祠(ほこら)もあり、みな海に向かって建つ。付近には、久保晴(くぼはれ)、本名久恒貞吉の「和布刈火や轉 (うた)た傾く 峡(かい)の海」と、高浜虚子(昭和16年夏)の「夏潮の 今引く平家 亡ぶ時も」の句碑もある。拝殿前の幅3メートルばかりの石段を10段程降りると、そこは海で、左方には高速道路の関門橋が空高く海をまたぐ。橋脚の下600坪は、元はワカメが沢山生えた和布刈神社の土地で、5月末迄、流れが速くて身の締まったワカメが食べられた。

 和布刈神社から対岸・壇ノ浦の源平の古戦場を望むと、大きな電光掲示板に潮の速度が表示されていた。折しも引き潮で、左の東シナ海から右の瀬戸内海へ、潮の流れは6ノット。高瀬宮司が指された石段下の灯籠の向こう側の岩には、黒いワカメが数株顔を出していた。

 和布刈神社では、万物に先んじて年の初めに芽を出すワカメを清浄視・神聖視するが、この思いは、対岸の長門住吉神社や、出雲日御碕神社の和布刈神事にも通ずるであろう。それは、古代の日本や朝鮮・韓国の人々の、海を清浄視・神聖視する思いがワカメに凝縮されたものではないだろうか。

 2003年6月

 

クョスコニョ    [1] 
 前のテキスト: 08.01.31 美しく豊かな水俣の海
 次のテキスト: 07.07.03 スイゼンジノリ
EasyMagic Copyright (C) 2006 藻知藻愛(藻食文化を考える会). All rights reserved.