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「330000」
  08.07.05 旧満州道草の旅-2
 

大連自然博物館の海藻展示

  

 

 大連に着いた翌日、私は大連南部の海岸、星海公園にある水族館を見学した後、大連自然博物館を訪ねた。ここには、数頭の鯨の標本の他、様々な動植物が展示されていた。

 博物館には藻類の標本や生活環を示したパネル展示も多数あり、ラテン語の学名と中国名の記載の後、簡単な説明があった。中国の藻類学は、明治以後の日本が学んだ西洋式の自然分類法に基づく植物学に基本的には従っている。

 例えば、近縁の種をいくつかまとめて属とし、次に近縁の属をまとめて科とし、これを繰り返して順次、目(もく)、綱(こう)、門とし、同時に進化の道筋に沿って古い時代に生れた下等な生物からより新しい時代に生れた高等な生物へと並ぶように整理している。大学で言えば理学部の分類学教室の方法である。

 しかし流石、漢方薬の国だけあってか、海藻の陳列法は本草学、これは薬学部の生薬学教室的方法で、薬効を重視した分類で、これを基本にしたような陳列法も取り入れているようだ。本草学については、古く中国では、本草綱目(李時珍1596)や三才図会(王圻1607)などの書物も出て、日本でも江戸時代、寺島良安がそれらに倣って和漢三才図会(1713)を著しているので、何となく懐かしく、興味深くはあるが、ちょっとピンとこない所もある。

 例えば、褐藻のワカメは裙帯菜とあるが、漢方薬扱いの様で、黒く変色したワカメを2cm 程の四角に切った小片をシャーレに入れて陳列していた。日本では、出来るだけ原色を残したワカメの大標本をベニヤ板にでも広げて陳列する。褐藻では他に、マコンブ(昆布)が海帯となって、同様の展示をしていた。昔の中国では、海帯は日本から輸入された貴重品で、バセドウ氏病の予防や治療等に用いられた高価な薬であった。ホンダワラ属では、ウミトラノオが鼠尾藻で、和名の虎の尾の方が強そうだ。アカモクは銅藻と書いてあった。銅の事を赤と言うのと同じ発想だろう。これらホンダワラ属の海藻には、本学の林利光・京子両博士との共同研究で抗ウィルス作用が見つかっており、今後、薬としても使えるのではないだろうか?

 緑藻では、たこ焼きの振りかけに使うボウアオノリやアナアオサが、各々脇滸苔、孔石葯(葯の本字は草冠に純)と表示されていた。源氏物語や古今集に出てくるミル(和名の漢字は海松)は刺松藻で、虫下しに用いられた。ミルは、富山でも干潮線以下の磯によく生えていて、私は海水浴で見つけると、美味しいのでそのまま食べる事がある。

 紅藻では、アサクサノリが甘紫菜、スサビノリは条斑紫菜となっていた。奈良時代の文献や木簡に出てくる紫菜(ムラサキノリ)は、中国由来の古名で、イワノリ系のウップルイノリを指す事は以前述べた。上記の本草綱目には、紫菜は咽喉(のど)が詰まって熱気ある時や脚気に効くとある。ツノマタは角叉菜となっている。寒天の様な作用があり、昔は壁土のノリに使われ、現在では様々な食品の固形材、増粘材として用いられる。ツノマタの属するスギノリ科は杉藻科で、日本語と似ている。

 また、トコロテンや寒天の原料のテングサは石花菜とある。テングサはトコロテングサの略で、正式和名はマクサである。平安時代、遣唐使が唐で石花菜からトコロテンを作る方法を學び、日本に伝えたとされるから、石花菜は古い中国名で、トコロテン自体が古い事を物語っている。石花菜は本草綱目に、「南海の沙石の間に生え、高さ二〜三寸。形は珊瑚の様で、紅白の二色がある。枝の上に細い歯がある。煮え湯の泡で砂屑を除去し、生姜酢を注いで食べる。大変もろい。根は砂中に埋めて置くと、再び枝が生える(意訳)」などと記されている。私は遣唐使の様に中国で習った訳でなく、富山県氷見の濱辺でテングサを干していた親切なお婆さんから教えて貰ったのだが、夏七月、濱に打ち上げられたテングサを拾い集め、真水をかけながら10日ほど石の上で干すと、色は紅藻特有の紅色から白色に変わる。上記の紅白二色とは、漢方薬材として、水をかけて脱色したのと、脱色前の2つあるのを指しているのだろう。酢を少量入れた水に脱色したテングサを入れ、煮て冷やすと、簡単にトコロテンが出来る。本草綱目には、トコロテンの薬効は口から胃までの浮熱を除去する作用とある。実際、夏トコロテンを食べると、涼感が得られるのは、我々が経験済みである。

 

金石灘海岸のコンブ 

 学会3日目午前中は、市内の風光明媚な金石灘海岸へ大連大学の観光バスで行った。総勢40人程度。学会初日、私が座長をした時に発表した常驕陽さんという長春の東北師範大学大学院生と隣席になった。彼女は学会で、与謝野鉄幹と晶子の詩集「満蒙遊記」を取り上げたが、発表はどうだったか、と前日聞かれた。晶子は反戦歌「君 死に賜うことなかれ」を発表し、鉄幹は旅順口で乃木将軍が日露戦争後に作った銃弾を模した塔、『爾靈山(中国語の発音では、二〇三となる)』を批判したが、後に夫妻は、侵略戦争に加担した事を客観的に取り上げた内容だった。そこで私は、日本人とは異なった目の付け所が興味深かったと伝えた。また、発表法や論文で具合の悪かった所を述べて訂正し、バスの中でもその続きの話をした。彼女の役に立てたのは良かった。

 

     

 

 金石灘海岸は風光明媚で、数百人の人出。海岸で日光浴をしたり、貝などを拾って遊ぶ家族連れが多い。濱辺には日本でも見られるアナアオサが多く、また昆布が海水浴客のいるすぐ近くの海岸に干してあった。小規模なので天然物らしかった。宮城県北部が天然昆布(マコンブ)の南限だが、大連はほぼ同緯度である。

 

旅順の二〇三高地

 学会3日目の午後は、旅順の二〇三高地の見学会だった。日露戦争の運命を決した二〇三高地は日本人が喜んで行く所だが、旧満州人や中国人、ロシア人の気持ちを考えると、行きたくなかった。しかし、他は不便で一人歩きも出来ないので、またバスに乗り込んだ。

 二〇三高地には二〇三高地簡介という説明書があり、「二〇三高地は1904年日露戦争時の主要戦場の一つであった。日露両軍はこの高地を争奪するため、殺しあっていた。その結果、ロシア軍は5000人以上、日本軍は一万人以上死傷した。戦後、旧日本第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を記念するため、砲弾の破片から10.3m高さの銃弾のような形の塔を鋳造し、自らが『爾靈山』という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した犯罪の証拠と耻辱柱となっている」とあった。常驕陽さんは、例の与謝野鉄幹にまつわる碑の前なのでとても感慨深げな様子だった。私は軍国主義者ではないつもりだし、この説明書の意味は分かる。しかし、ロシアを含む欧米の方が軍国主義の先輩で中国・旧満州を含めて東洋各地を侵略し、鎖国していた日本の領土を幕末に盛んに脅かした。また、満州族が明を侵略して立てた清も、当時は内部腐敗で国力が衰え、阿片戦争やロシアとの戦争など、欧米からの侵略戦争に負け続けていただけの話で、清が軍国主義反対を唱えていた訳ではない。二〇三高地簡介という説明書は、ロシアに肩入れをした、公平を欠いた説明ではないかと思った。(続く)

2004年10月

クョスコニョ    [1] 
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