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  和布刈神事(めかりしんじ)(1)
 

和布刈神事(めかりしんじ)(1)

古(いにしえ)の新年行事

 西暦も2000年代に入った。私はキリスト教徒ではないし、46億年と言われる地球の歴史からすれば、欧米に同調して大騒ぎする事はないと思う。しかし、西暦は日本の元号と違って基準年が変わらないので便利である。よく2000年まで生きたな、と新年を迎えて感慨がわくのも事実である。
 新年を祝う時、日本では海藻のホンダワラを使う風習があるが、北九州や山陰地方には、海でワカメを刈って神前に供える「和布刈(めかり)神事」を行う古い神社がある。昨年この神事を行う出雲を訪ねた。旧暦の新年にちなみ、今回は和布刈神事と日本人がワカメを食べる習慣の起源について考えてみたい。
 
神話の国、出雲への旅
 私は中学と高校の6年、京都の私立男子校に通った。この学校で英語を習った岩田勲先生と同期生7人、都合8人が集まる牽牛(けんぎゅう)会と言う同窓会が、松本崇志君という奇特な秀才のお世話で、毎年一度行われる。昨年も11月に鳥取に集まる事になったが、皆いろいろと忙しかったのか、それとも遠方で敬遠したのか、集まったのは松本君と私の二人だけだった。そこで、以前私がお参りをして感銘を受けた出雲大社とメカリ神事の行われる日御碕(ひのみさき)神社も一緒に訪ねる事になった。
 出雲風土記(いずもふどき)によれば、初め出雲は小さな国だったので、朝鮮半島東岸の新羅の余った岬に綱を付け、綱の余った方の端を出雲と石見(いわみ)の国境の三瓶山(さんべやま)にゆわえ、もそろもそろに國来い國来いと引き寄せた。それが有名な出雲大社や日御碕神社のある大社地方となった。次ぎに、農波(ぬなみ、場所は不明)から土地を引き寄せて松江市が出来た。最後に、越の国(北陸地方)からも土地を引き寄せ、鳥取県境の美保関(みほのせき)となった。この神話は、出雲風土記が完成した733年以前、恐らくはそれより数百年前から、出雲が朝鮮の新羅や北陸地方と密接な交流があった事を示している様で興味深い。

出雲大社
 平安時代の出雲大社は高さが現在の2倍の16丈(48メートル)もあったそうだ。さらに古代には、32丈(96メートル)あったと言われる。大和朝廷をも凌ぐ勢いの王がこの地方にいたのであろう。古事記には、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神を産む時に陰部に大火傷をして亡くなり、黄泉(よみ)の国に行った話がある。現世と黄泉(よみ)の国との境の黄泉比良坂(よもつひらさか)は伊賦夜坂(いうやさか)で、現在の出雲の国の揖屋(いうや)神社付近であったとされる。大和朝廷と出雲豪族との大規模な戦闘があって、多くの兵士や、大和朝廷側の巴御前の様に勇ましい王妃が火矢に当たって大火傷をし、ここで亡くなった事を、この神話は暗示している様に私には思われる。
 出雲大社の宝物館に行くと、偶然、國學院大學の先生で出雲大社宮司の三男(現在は弟)の千家和彦(せんげ・よしひこ)氏が、三人の女学生に宝物について熱心に説明しておられた。面白そうなので、私もその中に入れて貰った。千家さんの話とか宝物館の解説文書によると、1665年、出雲大社の境内の大石の下から、弥生時代の代表的な青銅器と共に、第一級品の翡翠(ひすい、硬玉)の勾玉(まがたま)一個と銅戈(どうか、銅製の矛)が出土した。銅戈は元々中国の殷の時代に製造され、秦から漢時代には作られなくなり、日本へは弥生時代に朝鮮を経て伝わったとされている。
 出雲大社の勾玉は1個だから、新羅時代の韓国慶州天馬塚古墳から金冠と共に出土した多数の勾玉には数も大きさも及ばない。しかし実際に慶州に行って見て、再度出雲大社の勾玉を見ると、互いにとてもよく似ている事が分かった。長さが約3.5センチ。分厚くて見事な緑色である。産地はフィリピンか、それとも出雲地方に近い中国か四国地方かと思われたが、京大原子炉実験所でX線蛍光分析をして調べたら新潟県の糸魚川産である事が分かったそうだ。韓国では勾玉は、胎児を形取った装身具で、生命力を意味すると考えられ、古代日本でも護符として出雲の王や王妃が身につけたのではないだろうか。この様な立派な発掘品が出ることや、日本全国で陰暦10月を神無月(かんなづき)と言うのに、出雲では神在月(かみありつき)と言うのは、出雲の勢力が北陸や朝鮮半島東岸の新羅にまで及んだ事を記した「出雲の国造り伝説」が立証されている様で興味深い。
 ところが、出雲を破った大和朝廷は、新羅とは仲の悪い朝鮮半島西岸の百済と親密であった。それは、例えば、622年に亡くなった聖徳太子の霊を弔う為に百済観音が造られたとか、天智天皇や天武天皇の父で温泉好きの第34代舒明(じょめい)天皇が、大化改新(645年)前夜の639年(舒明11年)7月に、百済川(奈良県広陵町曽我川)のほとりに百済宮や百済大寺を造営したと言う、日本書紀の記述からも伺える。神武東征の伝説にもあるように、百済と親密な大和朝廷の勢力は、九州から瀬戸内海を通って伊勢、飛鳥へと伸びたのであろう。しかしそれ以前は、大国主尊(おおくにぬしのみこと)に象徴される出雲の勢力が、新羅とかアイヌの住む北陸地方にまで優勢を保って、近隣を圧倒していたのではないだろうか。

和布刈り神事(めかりしんじ)
 さて、和布刈り神事は山陰地方から北九州にかけて、現在少なくとも三つの神社で行われていて、千六百年以上続く。神社によって日は違うが、旧暦の正月一日未明か五日の昼に海に出て、ワカメを刈って神前に備え、その年の五穀豊穣、豊漁、無病息災などを祈る。
まずは、福岡県北九州市門司区で旧暦元旦に行われる和布刈(めかり)神社の和布刈(めかり)神事について:
 第14代の仲哀(ちゅうあい)天皇は、新羅を攻めよと言う神のお告げを聞かず、神罰が当たって4世紀末の2月6日に亡くなった。そこで、幼児から聡明で絶世の美女、この時臨月であった神功(じんぐう)皇后が、同年九月十日、出産は帰国してからにして欲しいと、腰に石を挟んで祈願し、新羅に遠征した。新羅に着くと大津波が起こり、新羅の王は恐れをなして降伏した。彼女は勝利を収めて無事帰国。十二月十四日に応仁天皇を筑紫で産んだ後、戦勝を記念して自ら神事を執り行い、神前に早鞆瀬戸(はやとものせと)のワカメを捧げた。
この故事にちなみ、旧暦元旦午前三時頃、つまり年一番の干潮の時刻に、身を清めた神官三人が、烏帽子(えぼし)・狩衣(かりぎぬ)、白タビ、ワラ草履姿で、約3mもある大きな松明(たいまつ)をかざしながら、和布刈(めかり)神社の前の厳寒の海で、ワカメを刈って土器に盛り、酒や魚とともに神前に供え、航海安全や五穀豊穣を祈願する。
 次ぎに、対岸の山口県下関市の住吉神社で行なわれる和布刈神事は、矢張り神功皇后が住吉神社創建の際、元旦未明に神主に壇の浦のワカメを採らせ、神前に供えさせた故事によるもので、一般の人は行列の灯を見る事も禁ぜられ、漁師もこの神事が済むまではワカメを採ってはならないとされて来た。
 最後に、出雲の国の日御碕神社でも和布刈り神事が行われる。社伝によると、第13代成務(せいむ)天皇六年正月五日(約1650年前)早朝、ウミネコが和布(メ、ワカメの事)をくわえて日御碕神社の欄干に三度も掛けた。神社の人が不思議に思い、ワカメを神前にお供えした。これより旧暦正月五日、神官が和布刈神事を行うようになったとされる。出雲地方でも、この日からワカメ漁が解禁になり、春の訪れが近い事を感じさせる。

2000.02

クョスコニョ    [1] 
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