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能登風土記(1)

輪島の朝市

 石川県の輪島は輪島塗の他に朝市が有名で、朝市には海藻も沢山並ぶ。朝市は、当然ながら午前中しか開いてないので、朝の遅い私は近くに来てもいつも素通りだった。そこで、2月にしては珍しく快晴で暖かい日の早朝(?)車で輪島に出かけた。富山の自宅を9時前に出発し、高岡、氷見(ひみ)を経て羽咋(はくい)へ向かい、千里濱(ちりはま)から能登有料道路に乗り、穴水町の此木(このき)へ北上。此木から県道を北西に進み、十一時半頃に輪島の濱に着いた。行程、約125km。
 濱辺近くの重蔵神社の境内を通り抜けると、幅10メートル、長さ200メートル程の河井本町通り、通称、朝市通りが目の前に開ける。濱辺の漁師や近隣の農家の人達が、午前7時頃から、鮮魚、魚の干物、海藻、野菜、漬け物、民芸品などを所狭しと屋台に並べて売っている。朝市通りは、本来立派な商店街で、朝市は他人の店の前に露店を出している恰好だが、奥の商店も露店のお陰で人が集まるのだから共存共栄の態である。朝市は正午には終わるので、急いであちこちの露店を覗き、フグの醤油漬け、カレイの生干し、ハタハタなど、半値から三分の一ぐらいにまけて貰って買ったが、一個数千円もするアワビには手が出なかった。海藻では紅藻のイワノリ(正式和名はウップルイノリ)、舳蔵島(へぐらじま)産のツルモ、褐藻では、ギバサ(ホンダワラ)、ワカメのメカブ、島根で見られる板ワカメもあった。此の付近では採れない筈のヒジキもあるので袋を見たら、産地も販売者も書いてない。太平洋側か朝鮮半島産のヒジキだろうか?地元でカジメと言ってるツルアラメがその年は不作で見つからなかったのが残念だった。緑藻では、海水と淡水の混じる汽水域に生息するアオノリを買った。私が近づくと露店のおばちゃん達が、まけとくから買ってくれと、盛んに声を掛けて来る。私は、試食用と標本資料用に一袋500円の海藻を数袋ほど値切って買った。

値切るのは反骨精神の現れ
 話はそれるが、値切ると言えば、関東より関西人の方がよく値切る様だ。そこには庶民の抵抗精神が息づいて居るように感じられる。これは本人から直接聞いた話だが、大正時代、京大馬術部のある先輩は、郵便局で葉書の切手代金を値切った。それも、局員が根負けして自腹を切るのではなく、郵便局としての正式な値引きを要求したのだった。葉書の切手代、当時1銭5厘であろうか。20〜30枚買っても額は知れてるが、郵便局員は大袈裟に言えば政府の役人である。たとえ1厘でも値引きに応ずる筈もなく、交渉は困難を極めたそうだ。この値切りは単なるケチとは訳が違う。反官僚、学問の自由を求める京都学派の強烈な反骨精神の現れであった。三高(京大の前身)や京大があまたの世界的な学者を排出したのは、この既存の権威に屈しない自由な考え方、つまり反骨精神が土台にあったからではないだろうか。先日藻類学会が京大で開かれ、久しぶりに京大教養部(人間総合学部、戦前の三高)を訪れたが、良くなったのは建物ばかりで、昔はうるさくて困った学生運動の演説も立て看板も、ストライキも反骨精神も、何もかもなくなってしまい、副学長は文部科学省の天下り官僚だそうだ。京大にさえ反骨精神が無くなり、中央に迎合する体質に代わってしまったらしい。反骨精神は、既存の権威に疑問を投げ掛け、物事をもう一度原点にさかのぼって考え直す姿勢であり、また、政治権力から独立した、精神の自由を求める姿で、学問には欠く事の出来ない物ではないだろうか。

アオノリとイワノリ
 さて、朝市で買った海藻の中で、アオノリは鮮やかな緑色でカラカラに乾燥しており、そのままつまんでも旨いし、味噌汁に入れたらとても柔らかく、独特の香ばしさもあり美味しかった。イワノリは、日常我々が食べるスサビノリ(通称、アサクサノリ)と味は差程変わらない。しかし、スサビノリは薄くて柔らかいのに、イワノリはやや硬くて弾力性があり、独特の歯ごたえがあって美味しい。
 イワノリの分布の北限は日本海側の北海道小樽市祝津(しゅくづ)で、大量に産するそうだ(故三浦昭雄先生談)。津軽海峡を南下して本州に入ると、太平洋側は東北北部までだが、日本海側は東北・北陸・山陰を経て九州の壱岐、対馬まで、さらに朝鮮半島東南の釜山から西南の木浦(もっぽ)にも分布する。ウップルイノリ(イワノリ)は韓国鬱陵島(うつりょう島、ウルルン島)や千島列島の得撫(ウルップ)島と音が似ているので朝鮮語かアイヌ語と間違える人もいるが、ウルプはアイヌ語で「ベニマス」の意味、ウップルイは「(海苔に付いた砂を)打ち振るう」が訛ったもので、語源が異なる。

輪島の人々の暮らしと心
 賑やかな輪島の朝市も正午にはどこも急に店を片づけ人通りが少なくなる。濱に出ると、朝鮮語で書かれた化粧品、洗剤、飲料水の空きビンなどが、ホンダワラなどの海藻に混じって沢山打ち上げられていた。古来、こうして朝鮮半島から日本へ人や物や文化が伝わったのであろう。
 昼食後、前日連絡しておいた、海藻食に詳しい亀井和子さんをお訪ねした。亀井さんのお宅は、輪島の海岸沿いを南西に十数キロ下った輪島市上大沢(かみおおざわ)の海際(ぎわ)にある。途中、海沿いの道には風光明媚な磯が多く、光浦では駐車場つきの休憩所もある。上大沢町に近づくと、中年の女性が磯で5センチ程のコンブに似た黄土色の海藻を摘んでいた。褐藻ハバノリである。熱い味噌汁に入れると、綺麗な緑色に変わり、食べると磯の味がする。また、ハバノリは炙って乾燥させ、ご飯の上にフリカケにして食べても美味しい。上述の三浦先生に依ると、ハバノリのこれらの食べ方は神奈川県の三浦半島や江ノ島、静岡県の伊豆半島でも見られるそうだ。
 大沢町や上大沢町は、町とは言っても陸の孤島で、前は海、後はすぐ山である。高さ3〜4メートルの間垣(まがき)が海に面した屋敷地の前に立ち、閉鎖的な印象を受けるが、間垣は海風や高波を防ぎ、欠かせない。島根県の大田市五十猛(いそたけ)でも、つい20〜30年前まで輪島と同じ間垣があった事を、五十猛の古老から聞いたので、間垣は日本海側に広く見られたのであろう。
 間垣の所々に門があり、くぐって中に入ると、約二十軒の家が軒を接してかたまっており、奥の一軒が亀井さんのお宅だった。亀井さんは60代半ばの女性。丸顔、温厚親切な方で、息子さんと一緒に住んでいる。彼女に依ると、輪島では、葬式や法事の時にスイゼンを食べるそうだ。スイゼンは紅藻のテングサ(マクサ)を煮て固めたトコロテンだが、その中に餅米の粉を入れて固めて短冊に切り、花の形に並べる事もある。昔から、葬式の時の精進料理であり、夏暑い時のおやつでもあった。そのままか、ゴマをすって砂糖と醤油を混ぜたタレをつけて食べる。私は、亀井さんや隣家のお姉さんの弥郡はなさんのお宅、そして輪島市内のキリコ会館の隣の食堂でこのスイゼンを食べたが、素朴な味だった。
 上大沢には平家の落人伝説があり、村落共同体を作り、結婚相手も幼い内に親同志が村の中から選んでいた。従って、村中が皆親戚であった。明治二十年代、偶然砂浜に打ち上げられた大きな鯨を売り、その時、始めて貨幣が入ったと言うほど素朴な村である。ここでは、魚や海藻は必要な分だけ捕り、残ると干物にして保存してきた。また、村の人達は漁の他に田畑も耕す。もし、平家の落人伝説などが本当だとすれば、800年にもわたって近親婚が続き、間垣の中の親類同士が助け合い、自然に即した自給自足の生活を送ってきたわけだ。
 不思議な事に、上大沢村の生活は、貨幣経済が発達し、一見便利な町の生活よりもはるかに豊かさを感じ、心が落ちつく。村の生活を語る時の亀井さんの表情は穏やかで暖かく、村の人達の温かい心が伝わって来る様であった。

2001.04

クョスコニョ    [1] 
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