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陸奥(みちのく)縄文の旅  

ずうずう弁はズウズウ語
 東北地方の言葉、いわゆるずうずう弁は、日本語の中心であった関西弁や関東弁などとは著しく異なり、共通語が無ければ互いに通じない。関西弁とずうずう弁は、互いに話が分かるとされるスペイン語とポルトガル語の関係より遥かに遠い。スペイン語、ポルトガル語はスペイン弁、ポルトガル弁とは言わないのだから、ずうずう弁ではなくズウズウ語と言うべきだ。私はズウズウ語をペラペラに話したいと思い、津軽の人に教えて貰った事がある。関西弁などと文法は同じだが、例えば「す」が「すぃ」となって「し」と紛らわしいだけでなく、単語もかなり違う。まるで初めての外国語を勉強しているようで、数日すると頭痛がひどくなり諦めた。一口にズウズウ語と言っても、青森県では日本海側と太平洋側では全然違うそうだし、東北北部と南部でも異なる。従って、ズウズウ語津軽弁とか、ズウズウ語会津弁などと言うべきだろう。私事に渡って恐縮だが、私の父方の祖父母は大阪岸和田と福島県会津若松の出身で、明治の末に山形の米澤あたりで出会い、意気投合したらしい。彼等は初めのうち言葉が通じたのだろうか?(孫が余計な心配をするな、と怒られそうだ・・・)。

山形再訪
 東北と言えば、2001年6月下旬、山形大学でアジア太平洋地域藻類学会が開かれた。日本の他、韓国、中国、台湾、フィリピン、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイなどから、約百名の藻類学者が参加した。発表の合間や昼食時には、当時ソウル大学に居られた李仁圭先生、マレーシアのファン・シュー・モイ女史に、韓国やマレーシアの藻食文化について尋ねた。すると勿論、韓国では海藻をよく食べるが、マレーシアでも、海苔やワカメ、昆布など日本人が食べる海藻を輸入し、日本人と同じ様な食べ方をしている、との事で少し驚いた。
 マレーシアと言えば十年ほど前、アメリカが経済自由化を楯に、タイなど東南アジア諸国の経済をメチャクチャにしたが、その政治圧力に屈せず、アメリカ寄りの閣僚を罷免して為替取引を停止し、自国の経済を守ったマハティール首相を思い出す。彼はドイツで学位を得た医者だが、著書を読むと聡明で哲学的な事がよく分かる。ところが、アメリカや日本ばかりでなく、マレーシア国内にも彼を独裁的だと非難する人がいた。そこで藻類学者のモイ女史に、私はマハティール首相を尊敬するが、国内での彼の人気はどうか、と尋ねた。すると彼女は、彼は国民にも大変人気のある素晴らしい政治家だ、と絶賛した。私は、マハティール首相とドイツのヴァイツゼッカー元大統領は、スコラ哲学者にしてローマ帝国皇帝で、自省録で有名なマルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)の再来ではないかとさえ思う。今の日本でも彼等のように哲学と先見性を持った政治家が首相になって欲しい、と言うと、彼女も、政治家はたいてい何処の国でも私腹を肥やす事に熱心だけど、マレーシアはまれな例外だ、と言ってにっこり笑った。

三内丸山遺跡
 学会の後、青森に向かった。友人が青森駅に迎えてくれ、車で青森市内の三内丸山遺跡に向かった。遺跡は1992年、野球場建設中に発見された。青森県は直ちに野球場建設を中止し、調査したところ、今から五千五百年前から四千年前迄の縄文時代前期から中期の千五百年にわたって栄えた大集落の跡であった。そこで、遺跡を保存・復元して国民に広く公開し、誰でもいつでも見学出来る博物館様の公園にした。しかも、ここでは常時ボランティアのガイドが丁寧に説明して呉れる。3年前にも来たが、古代出雲大社神殿の柱を思わせる直径約1メートルの6本の栗の大木、大小の竪穴(たてあな)住居、堀立柱(ほったてばしら)建物や高床式建物などがある。
 従来、我々日本人の祖先は、縄文人を敗った弥生人で、縄文人は我々とは無関係の未開民族だとされたが、画家の岡本太郎が縄文土器は大変芸術的な土器だと評価した。考古学や人類学の研究も進み、最近は縄文人は現代日本人の祖先で、縄文語が日本語の祖先語だとも言われている(小泉保、縄文語の発見、1998)。

木造町と弁瀬(べんせ)湿原 
 翌日は、地元の方の御世話で、一緒に木造(きづくり)町役場からバスに乗り、木造町観光をした。ガイドの美しい女性が若々しい美声で木造町を案内してくれた。乗客は十人程で、多くは女性だったが、ガイドさんの説明を熱心にメモし、盛んに質問する、私と似た男性がいて親しみを覚えた。秋田県大館市の人で、ガイドさんが、「貴重な植物や遺跡の事を詳しく説明すると全部盗掘されるので、残念だけどあまり説明出来ないんです」と言うと、彼は「イギリスのストーンヘンジ(巨石記念物)のように、その価値に気付いた時には一部の石は無くなってたって事もあるから、きちんと教育する事が大切だと思うのよ〜」とオクターブの上がった独特の声で、見識高き事をのたまわった。床屋さんだそうだが、一度散髪をして貰いたいと思った。
 木造町は、青森県西部、津軽半島の付け根に位置し、人口二万人弱。海抜57.1mの天王山が最高峰。元々平坦な湿地で池沼が多く、ジュンサイの栽培が盛んだ。江戸時代から開墾され、米、麦、西瓜、メロン、ジャガイモなどが栽培され、農業が主産業である。青森の米はムツホマレ、ツガルロマンが高級品だそうだが、富山の米はと聞かれたので、富山産のコシヒカリがとてもうまい事を宣伝しておいた。
 昭和50年国定公園に指定された木造町の弁瀬沼は約23ha。コケが何層にも重なって出来た湿原である。ジュンサイと同じスイレン科で、丸くて黄色の花を咲かせるコウホネ、ユリ科のニッコウキスゲ、アヤメ科のカキツバタやノハナショウブ、食虫植物のモウセンゴケなどが自生し、夏至の候、私が訪れた際には青いノハナショウブや黄色いニッコウキスゲの花が見られて美しかった。湿原の中の木道を歩いていると、小柄で上品なラン科のトキソウも見られたが、周りの草花が写真マニアに踏み付けられており、可哀想だった。

木造町の埋没林
 富山県魚津市の海岸には、今から1500年前の杉の大木(直径約2m)の埋没林が保存されている。昭和初期、テングサ(マクサ)採りの海女さんから海底に大木が埋まっていると聞いた旧制魚津中学の山家基治教諭が、魚津港新設の際に埋没林を詳細に調査して発表し、昭和11年、国の天然記念物に指定された(魚津市埋没林博物館)。
 さて、青森県木造町の海岸にも埋没林がある。今から2万3千400年前、鹿児島の桜島が大噴火し、その時飛来した灰が数ミリの層になり、すぐ下の層に埋没林が覗いている。それで、約2万5千年昔の樹木と推定されたが、樹種は現在北海道にしか自生しないエゾマツ、アカエゾマツ等であった。当時は氷河期で、日本列島はもっと寒かったのだ。
 このあたりの湿原には、「サルケ」と言われる泥炭が沢山ある。暖房が電気や石油になる20〜30年前までは、夏にサルケを切り出して乾燥させ、冬に囲炉裏やかまどにくべて暖を取ったり燃料にした。サルケを燃やすと煙が沢山出るので、昔は木造町にはトラコーマが多かったそうだ。

縄文時代のワカメ(?)
 木造町の亀ヶ岡遺跡は、日本最初の考古学的発掘が行われ、記録された遺跡である。1622年津軽藩二代藩主、津軽信牧(のぶひら)がここに城を築こうとした際、大量の土偶、壷、瓶類が見つかった。亀が岡は、瓶(かめ)が出る岡、の意味で、今から2500〜2000年前の縄文時代後期から晩期の遺跡である。東大の坪井正五郎、佐藤伝蔵らが調査し、サングラスを掛けたエスキモーの様な土偶を、遮光器土偶(東京国立博物館蔵、挿し絵)と名付けた(東京人類学会報告、明治24年5月)。東大の調査では、亀が岡遺跡から出土した土器の底からワカメが見つかったとされる。
 実際に、近くの縄文館と言う小さな考古学博物館に陳列してある縄文土器の中身を、博物館の管理者で、亀が岡焼きの窯元、縄文式土器の作者、一戸(いちのへ)広臣氏に頼んで見せて貰ったところ、抹茶茶碗に似た茶碗の底に、土にまみれた植物の根か茎の様な物が黄土色の蚊取線香のように巻いていた。しかし、ワカメかどうかは判然としない。
 そこで、木造町の遺跡を発掘し、同様の縄文土器の中に入った植物を保存している鈴木克彦氏を県立青森郷土館に訪ねると、「亀が岡遺跡付近は、縄文時代以降、海面下になった事のない湿地で、ワカメや昆布が土器の中に入る可能性は全くないから、この植物はワカメではない」との見解であった。約2000前の問題の植物を実際に触らせて貰った所、ただの枯れ草と言う感じで、断定は出来ないが、陸上植物の根か茎の様に思えた。ワカメなどは触れるとパラパラと砕けるが、この植物は少し丈夫なのである。
 古代縄文人はコンブやワカメなどの海藻を食べたのだろうか?この疑問を明らかにするには、コンブやワカメ特有のヨードが遺跡中の植物にあるか否かだけでなく、人骨成分の中にヨードが多量に含まれるか否かを調べれば、はっきりするのではないだろうか?

海藻食文化の起源は?
 その後、三内丸山遺跡発掘責任者の岡田康博氏を訪ねた。四方山話の末に、氏は、「栗を食べ、狩猟、漁労の縄文時代から稲作の弥生時代になり、主食の備蓄が安定し、人口も増えた。しかし同時に貧富の差が生じた。縄文から弥生になって日本人は幸せになったのか、考えさせられる」とのことだった。同感である。
 今回の旅では、世界的によく海藻を食べる日本人、朝鮮人・韓国人の海藻食文化はいつ、どこで生まれたのか?どの様に伝搬したか?縄文人は海藻を食べたのだろうか?という、数年来の疑問が常に念頭にあった。米や麦のように収穫が安定し、大量備蓄可能な主食がなく、食用家畜を持たず、収量の不安定な栗と保存のきかない副食に頼った縄文人は、常に新鮮な食料を求めねばならなかった。冬場の野菜の確保は厳しかっただろう。その点、冬が旬のノリ、アカモク、ハバノリ、ワカメ等の海藻は風乾すれば保存しやすく、薬効もあった。もしかしたら、海辺に住んだ縄文人が海藻食文化の創始者だったのかも知れないが、青森ではあまり海藻を食べないので、可能性は低いのではないかと思った。

2001.08

クョスコニョ    [1] 
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