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昆布今昔物語

藻類学会

 1999年の藻類学会は3月末に山形大学であった。多くの若い研究者が、新しい技術を使い興味深い研究をしていて、藻類学の前途が明るいのを感じた。また、以前このシリーズの佐渡旅情で書いた、海藻標本作りの名人、東邦大学の吉崎誠さんは、岩手県の三陸海岸に面した山田町で採集した立派な昆布(マコンブ)を標本にし、学会本部の入口に飾っていた。標本の昆布は5〜6メートルもあるから、なかなか見ごたえがある。

日本史における昆布の登場
 古い話で恐縮だが、西暦715年9月2日、第44代の元正天皇が35歳で即位した。彼女の父は草壁王子(天武天皇と持統天皇の子)、母は元明天皇(天智天皇と蘇我宗我嬪(そがのそがひめ)の娘)である。
 飛鳥時代や奈良時代は、皇室は百済の王室と縁続きだったし、渡来人も多かった。日本史上でもまれな程、皇族が優秀で実権を合わせ持ち、才媛の皇女や渡来系も含めた貴族の娘を多数妃に迎え、優秀な皇族を輩出した時代に見える。女性の力もなかなかで、この時代には女帝が6人も出ている。しかし、聖徳太子没後の皇子達の不幸や壬申の乱の例を引くまでもなく、皇位を巡って優秀な皇子や貴族が血で血を洗って争い、急に皇子が少なくなった。そこで、見識が深くて落ち着いて、憐れみ深く美しい元正天皇が、甥の首皇子(後の聖武天皇)が成人する迄のピンチヒッターとして即位した。彼女が即位すると、瑞兆ある白い亀が奉納されたので、和銅から霊亀に改元された。これは、先進地の中国や朝鮮半島で使われて来た、銅鏡、銅鐸、銅戈、銅矛、銅銭などの素材として、当時の日本ではどれほど国産の銅を待ち望んでいたか、また、白亀の事をとても神聖で霊的な動物として考えていたかが分かり、興味深い。
 さて、元正天皇が即位して2ケ月足らずの10月29日、本邦史上初めて(という事は、恐らく世界史上初めて)昆布の話が登場する。少し長いが続日本記(宇治谷猛訳、講談社学術文庫)から該当する文章を要約して引用する。「蝦夷(えみし)の須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)は次の様に言上した。『先祖以来献上を続けています昆布は、常にこの地で採取し、毎年欠かした事がありません。この地は国府から遠く離れている為、往復に何十日もかかり、大変な苦労です。閉村(へのむら)に郡家(役所)を建て、一般の人民と同じ扱いにして頂ければ、共に親族を率いて、永久に貢献を欠かしません』」。蝦夷については、遣唐使が唐に連れて行き、楊貴妃との恋で有名な玄宗皇帝に見せたら、毛深くて珍しいなと言ったそうだから、恐らく現在のアイヌで、一般の人民と言うのは和人の事であろう。アイヌは和人よりも劣勢ながら、平和的関係であった事が分かる。アイヌを辺地に追いやり、彼等の食料である鮭の漁を禁じ、奴隷扱いした明治以後の政府とは違い、元正天皇はこのアイヌの願いを認めた。つまり、郡の役所を置き、アイヌを和人同様に扱うよう改善させた。当時の国府は飛鳥、閉村は現在の岩手県の上閉伊(かみへい)郡か下閉伊(しもへい)郡であろう。現在の上閉伊郡の大槌(おおつち)町の海岸沿いには、須賀と言う地名もある。昆布を採って暮らしていたアイヌの須賀君古麻比留が住んでいた所かも知れない。吉崎さんの標本の産地の山田町は大槌町のすぐ北隣である。

昆布の名の由来  
 富山ではサスのコブジメと言って、サス(カジキマグロ)を昆布でしめたものが有名だが、サスだけ食べて昆布を捨てる人も居る様だ。しかし、食物繊維が多く、栄養もあり、免疫力を高めるなど体にも良いので、勿体無い。是非昆布も食べて欲しい。
 コンブ属の中でもマコンブは最もうまく利用価値も高い。アイヌ語では昆布の事をコンプとかサスと言い(アイヌ語方言辞典、服部四郎編、岩波書店)、日本語の昆布はアイヌ語のコンプに由来すると言う説もあるがはっきりしない。因みに、朝鮮語では昆布の事をタシマと言う。和語では、昆布は古くは「ひろめ」、「えびすめ」などと呼ばれたが、「ひろめ」は海藻中で幅が最も広いからであり、「えびすめ」は上述のように、蝦夷(えみし、エビス)が採集し、朝廷に税(調)として貢いだ事による。また、昆布属を意味する学名のLaminariaは、ラテン語で葉っぱを意味する。
 昆布の文字は、古く平安時代中頃の10世紀初めに編集された延喜式に昆布半帖と出ている(遠藤、1911)。当時の昆布が今日の昆布を意味したか否かは定かでないが、古来アイヌと和人との間に密接な交流があった事を考えれば、延喜式の昆布は今日の昆布ではないだろうか。
 時代は下がって江戸時代中期、和漢三才図会という百科事典が出来た。中国の本草綱目の引用が多く、特に海藻については眉つばの記述や曖昧な図が多い。昆布の項では、こんぶ、比呂米(ひろめ)、衣比須女(えびすめ)、クンプウとルビが振ってあり、波の上に鰻(うなぎ)が立ち昇ったような奇妙な図がある。蝦夷(えぞ)の松前(函館付近)の産は黄赤色で味が大変良く最上で、津軽や南部の産は劣ると書いてある。また、いずれの昆布も福井県の敦賀や小浜、京都に送られ、調整され、各地に送られたとある。私は京都の出身で、小さい頃、職人が昆布を大きな平たい包丁ですいてトロロコンブを作っているのを見たことがあり、この記述が懐かしい。

昆布の生活史と養殖
 昆布やワカメは褐藻類の昆布目に属する。昆布科の植物は、寒帯から温帯の海に産するが、比較的寒帯を好む。日本では北海道と三陸以北の東北が主たる産地である。
 昆布の生産量は養殖の始まる前の1960年代は15万トン程度であった。ワカメ同様1970年頃から養殖が始まり、18万トン程に増えた。昆布を養殖するには、昆布の生活史を知る事が重要である。養殖が増えたのは、昆布の生活史(生活環)がはっきりしてきたからである。
 コンブは海のシダとも言われるが、生活還を見てみよう。コンブは一年で寿命を終える一年生ではなく、二〜三年生である。我々が食べる昆布は2倍体で、染色体が64本あり、人間の46本よりも多い。昆布の細胞は、子供を作る為に夏から秋にかけて減数分裂を行い、染色体数が半減(32本)した遊走子(泳ぐ細胞)を作る。遊走子は1mm位の微細な糸に似た雄と雌の糸状体(配偶体)になるが、配偶体の細胞は総て半数体(n)で、シダの前葉体に相当する。各糸状体には卵細胞(n)か精子(n)が出来、受精して2nの受精卵を作り、それが発芽して胞子体と呼ばれるコンブの赤ちゃん(2n)が出来る。赤ちゃんは翌年の春から夏に掛けて成育し、ミズコンブ(2n)になる。ミズコンブは小さく、うすっぺらで味も劣る昆布で、夏を過ぎると枯れて流れ去り、根元だけが残る。残った根元は翌年の春から夏に掛けて大きく成育し、味が良く、分厚い本物の昆布を作る。
 高校の生物教科書にある様に、シダやコンブは世代の交代を行うと言われるが、それは、有性世代(n)と無性世代(2n)の両者が共に複数の細胞(つまり、複数の世代)となり、生活環の上で交互に現れるからである。ヒジキの所で述べた様に、どちらか一方の世代の細胞が1個(1世代)しかない場合は、世代の交代とは言わないのである。人間の場合、世代の交代がないと言う事になるが、それは、精子や卵の様なnの細胞が出来ると、それらは分裂して複数個にならず、すぐ受精して2n世代に戻るからである。
 昆布は夏の天気の良い日に収穫し、濱で干されるうちにグルタミン酸がたくさん出来、マンニトールの白い粉をふき、旨みが出る。この昆布が、鰹節と並んで旨いダシを作り、奈良時代以前から日本人の健康と味覚を養って来た。まことに、ヨロコブべき事である。

1999.06

クョスコニョ    [1] 
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